魂の所在~今あること。そして未来へ

プロフィール
ぺくさんさん
どうも。
ちょっと年はいってますが、
年取ってますます元気です!!

ふるさとへUターンして、ようやく調子を取り戻しました。

都市生活で疲弊していた身体が、長良川と森の精霊によってリライブしています。

このかけがえのない地域を未来の子供達に残していくために、まだまだがんばる所存です。

流域のみなさんよろしく!!!



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奈良での志賀さんの講演会

志賀勝さんをお招きして
「万葉集」などを中心に月信仰を考える講演会です。
古の人々の月夜に対する想いを感じながら
奈良の町屋「月眠」で楽しいひとときをお過ごしください。

月暦のお話 
「月信仰の聖地を語る」
お話  
志賀勝(月と太陽の暦制作室) 
    1949年東京生まれ。
    日本読書新聞編集長を経て著述業。
    1997年から「月と太陽の暦制作室」を開いて、
    月暦を毎年発行、月と季節の復権と発見に努めている。
    著書「魔女の素顔」「病気は怖くない」
      「月的生活」「月曼陀羅」など
    ↓ 「月と太陽の暦制作室」のホームページ
    http://tsukigoyomi.jp/index.html

日時  
2016年8月10日(水曜日) 18時~
場所  
月眠(ギャラリーと学びの町屋)
奈良市高畑町1042番地
0742-22-7180
↓ 「月眠」のホームページ
https://www.facebook.com/getsumin
参加費
1000円 

問合せ
主催 men at work
090-8752-3307
menat@nifty.com
担当 関山
c0103137_02024256.jpg


http://menat.exblog.jp/25852277/
櫻堂薬師・瑞浪市
瑞浪市にある桜堂薬師に縁あって行ってきた。

東海環状を使えば、郡上からも一時間、遠く感じていた東濃地域も近くなったと感じた。

桜堂薬師は瑞桜山法明寺として弘仁3年(812)に嵯峨天皇の勅願寺として「三諦上人」がこの薬師を創建され、当時は比叡山・高野山と並んで日本三山のひとつと称され、最盛期には境内に七堂伽藍が建ち並び36坊が峰山山中に軒を連ねていたという。

しかし今はその三山の一つを思わせる面影は残っていない。
天台や真言の宗教都市に匹敵する信仰の地がこの地にあったかどうか知る由はないが、この地が白山信仰との結びつきが強い場所であったことは事実としてある。

縁起には創建以前のいわれが残っている。
「奈良時代(710年)元正天皇の皇女様がどうしても直らなかった悪い病気を、神のお告げで知ったこのお薬師に祈願されたところ直ちに良くなられ、喜んだ天皇は全国に薬師の信仰を奨励した」

養老6年に元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜ったのが白山を開山したといわれる越の大徳泰澄であるからだ。

時代が数年ずれているので別の事象であるかもしれないが、もし同一のことを指しているのであれば泰澄の由縁が
意図的に消されているという可能性もある。

1571年、信長の命令により焼き討ちされるまでは、24の坊が立ち並ぶ程の信仰を集めていたという。その後台風や地震により数度の復興を繰り返したという歴史を持っている。

その桜堂薬師は今年開基1200年を迎えるということで、当日はその記念式典であった。



当日は、喪失したままになっていた、大般若経三百巻の奉納とともに開基大法会がおこなわれ、稚児行列には多くの子供たち家族が集まりました。







神仏混交の形態をそのまま残るこの敷地の拝殿の東には、小さな神社がありました。
古来より、同じく天台の寺社として縁のあった、長滝白山神社の若宮宮司が公式に参拝し、長滝中宮寺と櫻堂薬師の由縁を説明してくださいました。



そのすぐ前には、戦後まで地歌舞伎や能舞台として利用されてきた舞台があり、床には回り舞台も仕組まれていた。



県重文(工芸品)の指定を受けている能楽面。
これは陶器で作ったレプリカであるという。
タグ: 桜堂薬師
万川亭通信(347)~彼岸のころ

 大和棟のほぼ正三角形の真っ白な壁が点在する野づらを、淡い黄色のパラソルが動いてゆく、パラソルの下には佳人の和服姿。・・・・あれからもう半世紀にもなる、が今も白昼夢のように、わたしの眼底に焼きついたままだ。
ーーー随筆家の岡部伊都子さんの『古都ひとり』の中から秋篠寺のくだりを映像にした、その1シーンである。
 
 その頃、わたしはまだディレクターの駆け出しで、教育テレビの「宗教の時間」ばかりをつくっていたが、総合テレビでみんなの見る番組をつくるのが夢だった。岡部伊都子ほんにんが出演する映像詩『古都の仏』なら、総合テレビの
特集番組になりそうだ。さいわい、秋の彼岸の日の特別番組としてこの提案が取り上げられ、シナリオを自分で書いて、それを持って芦屋の岡部さんの家をたずねた。薄色のアッパッパ (関西で夏の婦人さしていう庶民語)を着て、岡部さんは現れた。そのすがすがしい色が、庭の鶏頭の赤とよく似合っていた。岡部さんはテレビに出るのは初めてだと固辞されたが、和服姿の女人がただひとり大和の古い寺に詣るストーリーを語り、どんな色柄の着物が似合うだろうかという話に至ったところで、とうとう承諾をえた。
 彼女はわたしより十歳ちかく上である。しかし、すぐうえの姉のようにわたしの眼にはうつり、また生まれ育ったところが同じ大阪の船場だったことも手伝って、ふしぎにウマが合った。
 
 秋篠寺でのロケは、着物姿の岡部さんが大和平野の田舎路を歩いてゆく場面の撮影から始まった。当時めずらしかったクレーン車をつかって上下の移動撮影など行ったが、これも総合テレビならこそ許された贅沢だった。予算がまるで違ったのである。秋篠寺の金堂の中にレールを敷きこみ、技芸天の像までカメラを動かして、その前にたたずむ彼女の姿を捉えた。今なら国宝の文化財の撮影でやかましい制約を課されるところだが、その頃は鷹揚なものだった。先代の老住職がまだご健在で、撮影のあいまに若造のわたしに仏教の話をしてくださった。それに知的な興味をそそられ、岩波文庫で『金剛般若経』をくり返し読んだのも、その頃のことである。
 
 秋分の日特集『古都のほとけ』は大好評だった。何人か知己の人から電話をもらい、その中に若き梅原猛があった。
彼は感動したと電話で長々と語り、「あんな番組をボクもやってみたい」といった。そこで、わたしは翌年の企画の話をした。
それは、仏像をテーマにした新しいシリーズで、それまでの同種の番組がもっぱら美術史の観点から年代や様式を主にしていたのと異なり、「仏教思想ソノモノの表現として仏像を語ろう」 というものだった。秋篠寺の老住職の情熱がわたしにいつか乗り移っていたのである。ただ、一年間「宗教の時間」で京都や奈良の名僧や宗門の学者とつきあってきた経験から、もうアリガタイ「お話」はけっこうだった。もっと違った、もっと生きのいい、いうなれば当時のわたしのようなズブの素人の眼で、手垢のつかない仏像の番組をつくりたかった。
 
 当時、梅原猛は立命館大学の助教授で、西欧の哲学を講じていた。その年の夏、「日本人の感情」という題でわたしと教育テレビの番組をつくったところだった。わたしは梅原さんに 「あなたを仏像のシリーズの司会者にしたいと思うがどうか?」と水を向けてみた。
仏教の専門家と一般の視聴者との橋渡しをする役割に打ってつけだ、と考えたのである。
 こうして翌年  『仏像~かたちとこころ』の第一回がスタートした。仏教図像学の専門家、仏教思想の専門家にくわえて、まったく異分野の人を加えた三部構成とし、その聴き手と司会者の役どころに梅原氏を当てた。仏教の門外漢だからこそ持ちうる新しい切り口を彼なら見せてくれよう、いわば、わたしになり代わる素人の眼を期待したのである。こうして直木賞をとったばかりの司馬遼太郎やフランス文学の多田道太郎ら、およそ異色な顔ぶれを交えて、仏像シリーズが毎月一回、放送された。
 今だからこそ明かすが、当初、梅原さんの評判はあまりよくなかった。司会役の交替をいう声さえ出た。「素人すぎる」というのが非難の理由である。しかし、わたしにしてみれば、「素人だからイイのである」 けれども、そうだから、とも云えず、「三回まで待ってくれ」 といって頑張りとおした。 そして、とうとう翌年三月、一年間のシリーズを終えた。すぐに、これを本にする話がもちあがり、その本が毎日出版文化賞をとり、半世紀後の今なお増刷をくり返している。記録的な超ロングセラーであろう。
 
 梅原猛は今や押しも押されぬ仏教学者となった。それがこの岡部伊都子さんのテレビのせいだと云うのではない。しかし、あのお彼岸の特別番組は、この高名な哲学者の出現をより早くし、より確実なものにしたことには間違いがない。そこには、仏教の縁起の理法がまごうことなく働いている。
 岡部さんが逝って早くも五回めの春の彼岸の入りが、もう明日にせまっている。
                   二〇一二年三月十六日
 
 
水 谷   慶一 
501-5121岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007
越美文化研究所

万川亭通信(317)~焼き畑の村から(2)
先日放送された「クニ子おばばと不思議の森」に対する
水谷慶一氏のメールコラムからの転載です。

番組を見逃した人は
下記サイトから有料で入手できます。(210円)
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011031253SC000/

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 焼き畑農耕は今から四千年ほど以前、縄文時代の中ごろからこの列島各地で続けられてきた農法だが、ただ原野を焼いたあとに農作物をつくるというだけの単純なものではない。

 その焼く時期と方法、また作物の
種類とつくる順序などに、それぞれ定まったルールがあり、さらに作業の区切りごとにおこなわれる宗教的な儀礼がこれらにともなって、全体としてひとつのまとまった技術の体系をなしている。
 そのことが、現代の科学技術のありかたと比べてみた場合、いろんな事をわれわれに考えさせるのである。
 
 宮崎県椎葉村では毎年八月の暑いさかりに、前年に伐採した1ヘクタール余の山の斜面に「火入れ」をおこなうが、ちょうど焼き終わったころに雨が降るように雲や風のぐあいを慎重にみさだめて日をきめる。

 その天候の移り行きを
予測するため、地元の地形に応じたコトワザのような「きまり文句」が伝承されている。
 番組のタイトルである「クニ子おばばと不思議の森」の「クニ子おばば」こと 椎葉くに子さん(87歳)が、その知恵の伝承者というわけである。

 彼女のひなびたヒュウガ方言がなかなかいい。
いよいよ火をつける段になってその前に、山に棲むいろんな動物、クマやウサギ、ヘビや虫けらにいたるまで、あらゆる生き物にそのことを告げ、退散するよう、お願いをする。

 日本人の自然への一体感、すべて生けるものの命と連続した心根が、クニ子おばばの方言のはしばしから溢れ出る。
 
 「火入れ」は山のてっぺんから下へむかって行われる。これも山火事にならないよう火をコントロールする
ために生まれた焼き畑の知恵である。わたしは、奈良の三笠山で毎年おこなわれる伝統行事「山焼き」を思い出した。
あれも、元来は焼き畑農耕から生まれた宗教儀礼ではなかったろうか。

 クニ子おばばの「山焼き」が終ってまもなく、うまい具合に小雨が降り出した。
まだ地面が熱いうちに、おばばは蕎麦の実をまく
。三角錐の実がころころと転がる。
いちいち上に土をかけるようなことはしない。
ソバの実の三角錐のどれかの角が大地に接触すれば芽が出るからだ
 
 焼き畑の最初の作物にソバが選ばれる、このことは日本のみならず東南アジアのほとんどの焼き畑に共通している。種まきから収穫までに要する日数が、ソバの場合、短くてすむからだ。こうして一年目にソバ、二年目にはヒエまたはアワ、三年目にアズキ、四年目にサトイモ、というぐあいに違った種類の作物を順々につくったあと、あとは放棄して自然のままにまかせ、焼き畑はほかの場所に移しておこなわれる。

 そして
放棄した場所は、西南日本の場合、だいたい三十年でもとの森にもどる。その三十年の後半は、もっぱらキノコの
仲間やいろんな種類の山菜で人々は森とのつながりを保ちつづける。これが、クニ子おばばの「不思議の森」というわけなのである。
 
 今これをひとつの技術の体系としてみた場合、じつに自然の摂理をうまく利用していて、どこにも無理がない。

 原野を焼くことで雑草の除去と、灰を肥料として利用するという農業の基本課題を
解決し、日本の場合だとだいたい三十年を一単位としてこれを繰り返す。

 個人としては生涯に平均2回、同じ焼き畑を経験するわけ
で、その間に親から子へと技術と知恵が伝承され、こうして焼き畑農耕とは、循環して持続が可能な、今流行の言葉でいえば、「サステイナブルなシステム」となって二十一世紀の今日まで生き残ったのである。

 技術とは、本来そういうものではなかったか? 焼き畑農耕の実際をみて、あらためて「技術」なるものの本質に眼を開かれる思いをしたのは、わたしだけではあるまい。
 
 今年の春、この『万川亭通信(306)~あえて書生論を呈す』 で、わたしは次のように書いた。

  ・・・わたしが原子力発電にもつ根本的な疑念は、これがひとつの循環系をなしていない、という点です。

 ただ一方向にのみ解決を先送りするだけで「出口なし」というのでは、これをはたして真の意味で「技術」と呼べるのかどうか、首をかしげたくなります。
 
以来半歳を経過し、汚染物質の処理をめぐってなんらの解決策を見出せないまま、もはや秋色濃厚である。

                   二〇一一年九月二九日
 
 
 水 谷 慶 一
501-5121岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007
越美文化研究所

熊野本宮 大斎原(おおゆのはら)
この台風により甚大な被害を受けた紀州半島。

その中でも、奈良と三重と和歌山が接する山深い場所に多くの被害が出た。

この地はまさに2004年、紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産登録された場所である。

その中心地を流れる熊野川(十津川)本流とその支流の被災状況ははあまりひどく山は崩れ、川は堰き止められ、集落は孤立し、大変な数の人の命が奪われる災害となった。

熊野本宮が今の場所に移される前の明治22年(1889年)までは、社殿は熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にあった。

この中洲には今も広い川原にこんもりとした丘陵のような森に囲まれた場所にあり、現在はその旧社地跡に大鳥居だけがそびえ立っている。

川に浮かぶように立ち並ぶ荘厳な伽藍は、深い山々を越えてようやくたどり着いた熊野詣での者たちには神様の居ます場所と見えたことだろう。

しかし、同年の大洪水により社殿が流されたため、現在の山際に社殿を移した。

その本宮町も今回の水害で川沿いの建物は軒並み水害でめちゃくちゃとなった。 大鳥居の立つ大斎原も泥まみれになっているという。

雨の多いこの地には、太古の時代からこのような水害に何度もさらされてきており、それをいつの時代も人々は乗り越えて生活を立て直してきた。

紀州の深く豊かな森とその地に座ます神とともに生きてきたこの地の人々が、この受難を乗り越えて再生していくことを信じています。



ヤマトナデシコ
wikipediaによると
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漢字で「大和撫子」と書き、植物「カワラナデシコ」(河原撫子)の異名としても用いられる言葉[2]

「大和」とは日本の異名だが、大倭・大日本(おおやまと)という美称も指す。大和政権五畿の一つ大和(現在の奈良県)に在ったことに由来する。元々は「」と書いたが、元明天皇の時に「倭」と通じる和の字に「大」を付けて「大和」と書くよう定められた。「撫子」とは撫でるように可愛がっている子、愛しい子、愛児。
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日本女性を可憐で繊細だが心は強い花に見立てて言う美称であるという。

その名を冠する女子サッカーチームが今日、ワールドカップ優勝の名誉を国民栄誉賞という形でたたえられた。

その栄誉をたたえたのは、この国のトップリーダーであった。

その映像には、この国の今のありようが現れているように思えた。

一方は国家の中枢にいて、組織の中の組織を代表する人が、たった今まで野に咲いていた花のような無名の人々を「この国の誉れである」と賞賛しているその映像である。

マージナル。

つい昨日まで日本の女子サッカーをめぐる状況はこの言葉に表現されているような存在であった。

周辺的、境界的、あまり重要でない。

地域として捕らえれば、都市と山里の境目のような場所だろうか。

日本のプロサッカーJリーグが華々しく成立して20年。
女子プロサッカーの置かれてきた状況は常にマージナル。
継続する強い意思が弱まればすぐさま境界線上からスピンアウトされるような状況であったといえるだろう。

その組織的支援や評価は雲泥の差であったという。

例えばその構造を、相撲協会という巨大な利権集団のもとで運営されている大相撲と、プロですらない女子相撲連盟とを対比させるのは乱暴だろうか。

そのような厳しさが彼女たちの意思の強さの源泉になっていると考えるのは短絡的だ。

彼女たちの多くは、子供の頃から男子のチームの中で、花は花でもあだ花という存在として過ごしてきた。

子供時代はそれでも楽しくプレーできるが、いくら技術を身につけ男子に負けない存在となっても、花を咲かせる場所はないと予感していただろう。

「この場所で花を咲かせることなどできないだろうという予感の中で、それでもそれを信じて突き進んできた魂」

もしかしたら、そのような心情を抱えてそれでも健気に凛々しく生きる人を古の人は「なでしこ」とよんだのかも知れない。

そしてそのナデシコは今や「日本のすべての人に希望を与える」存在として私たちの前に現れている。

再生などということはもはや不可能と思われるような現実を経験した多くの人々は、野に咲くナデシコという花を足元に見つけたのだと思う。

私たちはいつの間にか、組織とかシステムに依存することに慣れ、暑い夏と暴風を、寒い冬と木枯らしを耐えて春を待つ喜びを忘れていたのかもしれません。

自然の持つ美しさが、一瞬にすべてを奪ってしまうその力と人の世のはかなさとが表裏となっているということをいつの間には忘れていたのだと思う。

しかし、歴史を振り返れば、今日まで日本は度重なる天変地異と人の世の混乱を生き抜いてきた。それを可能にさせてきたのは、自然と人の関係を自覚し、そこに有難さとはかなさを見てきた日本人の心性であると思う。

ヤマトナデシコとは、そのあり方を一つの花にたとえ見た日本人の自然観であるかもしれません。







【告知】語らば白山塾~古代史探訪ツアーin奈良
「語らば白山塾」という文化講演が今年度4月から月一回ペースで、やまとフィールドミュージアムの篠脇山荘で開催されて6回を数えました。

元NHKのディレクターとして活躍された水谷慶一さんを講師とした、古代史から日本の歴史を捕らえ直す講座です。

講演の内容については下記を参照ください
http://www.musublog.jp/blog/peksan/?date=20100417

今回は、その連続講座が1クール終了したこと機会として、フィールドワーク「古代史探訪ツアー」が開催されます。

すでに講座メンバーの方も、初めての人も対象の特別ツアーなので、この機会に是非ご参加ください。

ツアー概要は下記です。
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古代史探訪ツアー「箸墓(はしはか)古墳」のご案内

取り組み概要:
郡上からバス貸切の一日ツアーで、奈良の箸墓古墳などの遺跡や・三輪の大神神社を水谷慶一氏とともに巡ります。

行き先:奈良、天理・桜井市内周辺
日 時: 平成22年11月19日(金)
参加費用:1万円以内(未定)

旅程:白鳥庁舎発(7:30)→大和庁舎→大和IC====亀山パーキング====名阪国道=====天理IC→三輪大神神社(12:30)昼食→箸墓古墳→桜井市内発帰路→郡上到着(21:30頃予定)

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ツアーの詳細や、これからの取り組みを知りたい方は、今週末の10月15日(金)午後7時半開催の「語らば白山塾」に来てください。