魂の所在~今あること。そして未来へ

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アラン ブースと長良川~紀行作家の見た日本の風景



今から25年程前。

というか1990年頃、この長良川筋を名古屋から五箇山まで歩いて旅をした者がいる。

それ自体は特段珍しいことではないとも言えるのだか、それが紀行文となって出版されていることを最近知ることとなった。

著者の名前はアラン・ブース。著書名は『飛騨白川郷へ』というもので、失われゆく風景を探してというサブタイトルもつけられている。

英国人の著者が、日本語の本を書いたわけではなく、翻訳本として出版されている。

94年に単行本として出版されているが、初出は週刊新潮に連載されたものがまとめられたものだ。

外国人旅行者が日本の田舎を訪ね歩き、その異文化体験をまとめたと言えばそれまでだが、いやいやどうして、氏が探し求めたものがそんな表層的なものではないことを読み進むにつけて知ることとなった。

89年に名古屋で開催された世界デザイン博覧会なるイベントを覚えている人もいるだろうか、もう25年も前の出来事だ。(私は体験してないが)

なぜかこの紀行文の出だしはデザイン博から始まっている。

89年といえばバブル絶頂の頃、デザイン博自体もその浮かれた世相を反映し、当初目標の1,400万人を上回る約1,518万人に達し、「もっとも成功した地方博」と記憶されているが、著者であるブース氏は極めて冷淡にこのお祭り騒ぎを記録している。

冷淡という表現は間違っているかもしれない、彼は企業や外国から出展された一つ一つのエキシビションや作品を体験した様子を、あたかも異世界に迷い込んだ童話の主人公のような困惑を、軽快にしかもウイットに富んだ文体で表装し丁寧に20ページも費やして描き出した。

ここまで読むだけで、かなりの疲労感とめまいを伴う。

著作名につながる記述が何一つ現れないからだ。

しかしその後唐突に彼は祇園精舎の平家物語を語り出す。

デザイン博の何かに刺激されて平家物語を思い出したというわけではないが、しいて言えば諸行無常という言葉がその会場を巡る間中に頭の中から離れなくなったのかもしれない。

バブル景気の只中から、さらに膨張する90年代への夢を託したかのようなこのイベントは、中京圏の経済の更なる発展を願って名古屋市市制100年を記念して企画されたものだが、なぜブース氏がこのイベントに我慢強くも三日間も費やし、そしてそれを記録しようとしたかの理由は明らかにされていない。

ただ、"日本を歩く"をテーマとしたこの紀行連載のスタート地点として名古屋のデザイン博を描き出したブース氏には旅の終着に向けたこの作品全体の構想がイメージされていたのだろうと思う。

平安期の貴族世界から武人の世へと暗闘する士族の歴史を滔々と説きながら、その世界に広がる日本人の物語認識や世界観を語り、この世の栄華から一転し惨滅の歴史を辿る平氏の残滓である落人集落を目指し、長良川を徒歩で遡るという本題に入ってゆくのである。

25年後にこの著作に出会った私は、この本を読み進める中で、90年代前後の日本の風景を他者の視点を通して改めて追体験することとなる。

追体験というのは誤りである。明らかにこの時代の日本(この地域という意味ではないが)に暮らし、その時代を経験してきたのであって、書籍によって初めて知るわけではないからだ。

しかし、この25年という歳月は、世紀も社会も大きく変化してきた要素を含んでおり、自分の人生の半分となる年月を振り返るという行為はもはや平家物語と大差ない時間の経過を感じ、私自身が著者自身となって旅をしている感覚にとらわれていったのだ。

名古屋を出で犬山にたどり着く。

その前に明らかにしておかなくてはならないことがある。ブース氏の出自である。
1946年イギリスのロンドン生まれ。大学で演劇と英文学を専攻し、卒業後はシェイクスピア劇などの古典劇の演出を手掛ける。そのつながりから日本の能に興味をもち、1970年に来日することになる。当初はそんな長居をするつもりはなかったらしいが、それ以来NHKの英会話講師や早稲田大学の英文科で教えた後、作家として日本の英字新聞や雑誌に社会批評や伝統芸能についてのコラムなどを執筆している。

長い滞日生活の中で、日本語会話も日本語の読み書きも習得したらしく、「そこらの日本人よりも話が上手」と旅で出会った多くの人が感嘆する程らしい。

そんな彼だから、旅先で出会う日本人達はふと店先や軒先に顔を出したブース氏のたたずまいや表情をみて、少しの間言葉を失うのが常だ。

41号線を越え、30kmの道のりを街道に掲げられた英語風の文字を読みながらようやくたどり着いた犬山の観光案内所では、彼が言葉をかけるより先にその案内人は諦めたかのように電話を取り「がいじん一人なんとかならんか」と旅館に電話した。

明らかに"異質"と思われる存在が、その正規の手続きも経ず同質な存在と同じような手続きで「ビールください」と声をかけられたら、当時の日本人ではなくてもだれもが面喰うかもしれないが、それほどに氏は日本の景色と文化に溶け込んでいたのだろう。

ブース氏にとってこれは初めての旅ではない。
彼は88年には日本最北端の宗谷岬から南端の佐多岬まで4カ月をかけて歩いている。その紀行書は『ニッポン縦断記』として同年に出版され(英語版はRoads to Sata)、その後も徒歩で四国、九州、津軽を巡り紀行を記している。

少し運動するすると赤く染まるその白面は、慣れぬ日本人にはどう見ても酔っぱらった不良外人に映る。しかもスーツではなく長い旅生活で薄汚れたジャンパー姿で不意に登場されては誰もが面喰うに違いない。

そんなことも何度目かの旅で十分経験を積んでいる氏にとっては当たり前の反応であるかのように、淡々と語るのだ。

宿に泊まった翌朝、日本最古の犬山城の歴史に想いを馳せたあと、木曽川の橋を渡り岐阜県へ入ってゆく。

ようやく紀行文らしくなってきた。
鵜沼から木曽川を日本ライン沿いに東に進み、その名称の由来に疑義を感じながら美濃加茂から関に抜けて歩いてゆく。

関の街の中に入り、カミソリ生産に変わってしまった刀鍛冶の街並を歩き、堀川沿いの食堂でビールを飲みながら主人に宿を教えてもらい関観光ホテルを紹介される。

この宿に決めたのも、犬山ではシーズンが終わり体験できなかった鵜飼船に乗船できるということを聞いたからだった。

鵜飼についてはこの旅のマスト要素だったようで、伝統芸能好きの彼は鵜飼についての下調べはなされており、「信長の庇護によって守られてきた」鵜飼船に多少の期待を寄せていたようだが、シーズンも終盤となり他の観光客と相乗りで乗った客船に向けショウの様に見せる鵜飼漁には様式化された美とは対極にある機械的な鵜匠の仕草に興味を削がれたようで、特に記することもなく宿に帰っている。

翌朝宿を出立し、いよいよそこから長良川を溯り美濃の街に向かう。

701年にこの地方で作られた美濃和紙で地元の地図台帳が残されていることにより、日本最古の和紙として名高い町であることも紹介されている。

美濃のうだつの町並みのはずれにある食堂に入り、そこの女性と彼岸花についての日本人の仏教的にしみついた感覚についてのやり取りをした後、美濃では有名な造り酒屋の話となり、その清酒『百春』を燗でいただいた後、そこから歩いて3分の造り酒屋にたどり着く。

美濃にたどり着いた後は、なぜかそれまでの流れとはちがう対話が生まれてくる。
名古屋から関に至るまでに出会った人々との会話は、宇宙人と地球人との対話のような探り探りの感じ(日本人側からの一方的な)がぬぐいきれないが、山と平野を分かつための"関"の役割であるかのような街を過ぎたとたんそれまでの異次元コミュニケーション感が薄れ、旅人を迎える人々の普通の会話が成立するようになってくる。

造り酒屋では酒屋の主である女主人に酒の由緒を聞き、一般非公開の酒蔵を杜氏に案内されたり、とても濃い時間を楽しんだようだ。帰りには「次はご家族でいらっしゃい」という挨拶とともに百春のお土産までいただいている。

湊灯台や美濃橋を訪れた後、彼は珍しく街の感慨を書き、「美濃は、年代を経てきたことの証を実に上手にまとっている。それをバスから降りてくる観光客に片っ端から売り込もうとするような俗なところも意地汚さもない」と賛辞を残した。

右岸に続く旧道を遡り、立花白山社を経て、造り酒屋の女主人に薦められた鄙びた湯の洞温泉では川魚のフルコースをいただき、その夜は久しぶりに落ち着いたのか、平家物語の第一巻を読んだと記している。
彼がこの旅で求めていた平家物語的世界の入り口にやっとたどり着いたとでも言うようにだ。

これは明らかに長良川河畔の景色が彼をそのような気分にさせていることが分かる。というのもその後に続く郡上に向けた道行きの中で、左岸を走る高速道路から出るスモッグを気にしながらも、右岸に続く田畑から香る稲刈り後の稲藁の臭いを嗅ぎながら、場所によって表情を変える長良川の川面を飽くことなく眺め歩いている。
春には乱れ泳ぐだろう鮎やサツキマスに想いを馳せながら、話は二十年前に計画された河口堰建設へとつながり、二ページをかけて河口堰建設の経過を語り、建設の見直しに一縷の望みを託していた。もしこれが実現されていたらこのような姿ももはや見ることはできないだろうと記している。

彼が危惧していたその前年、河口堰の本体工事はすでに始まっており、95年には本格運用が始まったが、ブース氏がその後の姿を見ることなく逝ってしまったことは一つの幸運だった。

川では落ち鮎の投げ網をする漁師の姿を見、路辺の石仏に興福寺の阿修羅像を思い浮かべながら、遠くインド中国を経てもたらされた信仰が、長い時間をかけてこの国独自の信仰として定着していった経過をその景色に見ている。

ようやく郡上八幡にたどり着いた彼は驚た。「およそ二十年前初めて日本に来たとき、夢見ていたような町だった。あまりにすばらしい町なので、その晩ぶらりと見て回ろうと出かけた時も、痛い足を引きずるのを忘れるほどだった。」

町の中心にたどり着く前の民宿に倒れ込み、夕食と風呂を済ませ休息した後、宿の下駄を借りて玄関を出たブース氏は「そして三十秒後、道の真ん中に立ちつくしてしまった。名古屋の企業パビリオンであれだけのタイムワープ経験させられたあとで、とうとうほんもののそれにとっつかまってしまったのか、と思ったのだ。」と語る。

面白いことに、この頃の英文の旅行書は一冊を除いていずれも郡上八幡をすっ飛ばしていたようだ。例外としてロンリープラネットには「見るべきものはさしてない」という一節があるだけだったという。

それに続き、「そりゃ確かにシマウマの群れが彷徨しているわけでも、オーロラが夜空に揺らめくわけでも、クラカタウの噴火が近いわけでもないよ。しかし、ここで見るべきものは、初めて東洋に心酔して日本にやってくる西洋人の大半が、いたるところに見つけられるとばかりに思い込んでいたのに、そうでないと知って幻滅する、そういう類のものなのだ」と記している。

ブース氏にこんな感動を与えることができた郡上八幡はある意味ラッキーだったともいえる。もし、彼が夏の郡上八幡へ来たのならば、その喧騒と人の多さに辟易し、名物の郡上踊りも過剰な騒音と表現されていたかもしれないと思うからだ。

だから彼が、十月に入り急に寒くなり始め観光客の減った時期にたどり着いたのは彼自身の幸運だったとも言える。

ブース氏自身が語っている「ぼく個人としては、盆踊りに一ヵ月遅れて郡上八幡に着いて良かった、と思っていた。十月初めの今宵、この小さな町の通りはぼくひとりのものといってよかった。~ぼくはこの泉も商店も石畳の横丁も気に入った。しかしそれ以上に、ごくあたりまえの諸もろが気に入ったのだ。暗いこと、観光客がいないこと、車の轟音ではなく火の用心を呼びかける拍子木と屈託なく流れる水音によって破られる静寂、木と漆喰でできた古い家々-ぼくが日本のありとあらゆる町で探してきたものであり、保存するほどのこともないのでほとんどの町にもはや存在しないものである。なによりも、ほの暗い提灯の下がった食べもの屋のたたずまいが気に入った。」

次の日、宿の主人から郡上の見どころを聞いて再び路上の人となる。
いつものように交通量の少ない右岸を歩き大和駅前のすし屋で昼食をとる。

ようやく白鳥の町にたどり着き見つけた旅館に倒れ込む。
真っ赤な口紅のぽっちゃりした愛想の良いおかみさんは歓迎のしるしとして缶ビールをご馳走してくれたという。
「ぼくはいっぺんにこの旅館が好きになった。ぽっちゃりしたおかみさんは、ぼくが湯につかっているあいだに汚れ物を全部選択してくれ、部屋の窓の外の竿にかけておいてくれた。」

翌日、おかみさんが畳に膝をつき、きちんとした懇願の姿勢をとったのでビックリしていると「あなたのお写真を撮らせていただけないでしょうか。外国の方がうちにお泊りになるの、初めてなんですよね。次の方がそうすぐ見えるとは思えませんし」

そう言って玄関の外に三人で立ち、近所の人にシャッターをお願いし一回失敗し二度目で成功した。

「またきてくださいね」おばあちゃんが声をかけてくれた。
「またきてくださいね」近所の人が声をかけてくれた。
「またきてくださいね」おかみさんが手を振った。

ブース氏はまたも路上の人となり北を目指した。郡上八幡の宿の主人が教えてくれた長滝神社の宝物殿は閉まっていた。
今日中にひるがのまでたどり着こうという計画なのですぐさま北濃駅を越え山道を歩いた。

正午に高鷲村で食堂に入り、二時には西洞の民宿街に到着し三時十五分には叺谷の長良川源流までたどり着き、四時過ぎには蛭ヶ野高原の分水嶺に到着している。

ブース氏は「蛭ヶ野高原は、ヤングのために考え出された楽園だった。」
と評している。若者が都会で欲しがるようなサービスや商品がそろっているという。アメリカ風スイス風イギリス風というどこの国かわからないような建物や装飾を風景としたリゾート地など認めたくないという思いがあるようだ。

人形の家のようなカフェに飛び込みビールを飲み一軒の宿をようやく紹介してもらい、1km歩いた先に紹介された民宿があり、おかみさんが笑顔で待ち受けていていた。

1967年以前には、氏がこれから向かう先である御母衣ダムにあった集落に住んでいたという主夫妻は、移転の地をここ蛭ヶ野に定め民宿を始めた。三年ほど前から蛭ヶ野の地はリゾート地のような活況を示してきたとおかみさんは喜んでいた。この辺境の地にもバブルの影響が確実に表れていた。

この宿でブース氏は同宿した客達とともに夕食をとり、そこで越前から来た庭師の棟梁から、庭造りにおける空間構造を能の型にも似た日本人の精神文化の雛形として興味深く話を聞いている。

そしてここからまた平家物語の世界に入る。分水嶺を越えたこの深き山国はブースにとっては平家の籠り国であり、ちりじりになりながら隠れ逃れた落人の声が深い谷から今も聞こえてくるのかもしれない。

荘川川沿いに続く道を歩きながら「荘川の源流神々しいまでの素晴らしさだった。渓谷づたいに伸びる道の下に、一連の滝、丸石、緑色のよどみなどほ配して澄んだ急流が流れていくのだ。」と僻村の風景を称えている。がしかし、その喜びもつかの間、ロックフィルダムの人口湖によって台無しとなった。「サクラの木と人口湖を囲む土手は、ぼくが八日間の徒歩旅行でこれまで通過してきた中でも最も荒涼として風が強かったのだ。この半分水没した谷には、ひとの住む社会はない。亡霊と子供時代の記憶があるばかりだった。」と記している。

この後、ブース氏はゴールと定めた五箇山の相倉集落まで向っている。
ページ数にしたら46頁も費やしている。

白川郷に残る民謡『白川しょっし』や『白川わじま』の歌詞と落人伝承との関係を考察し、旧遠山家合掌資料館に立ち寄り、家屋と大家族の暮らしぶりに想いを馳せ、平瀬の旅館に泊まりオーストラリアから来ていた旅行者と会話もしている。

たどり着いた白川郷の荻町では、戦中の一九三三年にドイツからナチズムを逃れて来日し、日本の伝統建築の庇護者として賞賛されたブルーノ・タウトも泊まったという旅館に宿泊しているが、もはやテーマパークと化している白川郷の姿に辟易し、タウトの功績にも興味を示した様子もない。

荻町の合掌集落を歩きながら「~朝の空は青く微風さわやかで、カメラの三脚も持たず、テーマ遊園地の頼みの綱である無批判に楽しむ態度も持ち合わせていない人間にとっても、あちこちそぞろ歩くのは快い運動となった。そよ風の小道をぶらぶらと歩いて回りながら、そもそもぼくが日本へ来た理由というのを思い返していた-わざとらしい絵葉書のような景色を求めていたわけではない。まだ生きてつづけているかもしれないと思い、じつは死に絶えてしまったものを求めてきたのだった」と記している。

そして二十年前に日本に来ることになった能への関心と、来日してから知ることになった古典芸能への違和感を書いている。

「絵のように美しい荻町を出て生きながら、なんにでも標識を掲げる日本の化石文化に失望し憤慨しているのか、それとも能や合掌造りの村がすっかり消滅してしまわなかったことに素直に感謝するべきなのか、はっきりと心を決めかねていた。芸術たるもの死に絶えてつつましやかに埋もれているほうがいいのか、はたまた死に絶えても防腐剤に漬けておいたほうがいいのか?後者の方が利益につながることは確かだ、と思った。」

飛弾の七橋のある県境を越え、五箇山に入り、上平村の民宿で一泊し、目的の平村ではコキリコの実演も聞き、薦められた相倉地区でようやく一軒の宿を紹介されるも、学校の研修旅行に来て分宿する高校生の一団と同宿される羽目となった。

ブース氏はもはや、何の期待もなく平家の落人伝説が事実であったのか無かったのかさえ、どうでもよいことのように感じていた。

あたかもそれは、この旅のスタート地点で我慢強く三日間通い続けた名古屋デザイン博の喧騒の世界に再び迷い込んだような錯覚だったのかもしれない。

失われゆく風景を追い求める旅とは、結果として失くしてしまった暮らしという文化を確認することであったのかもしれない。

この旅がブース氏の最後の旅になることは、彼自身がこの二年後に進行した癌を発見することによって自覚されている。その後彼は病床の上で原稿を書き続け、その遠因となるカルカッタへの旅から今日までの症状に至る治療歴などを『背負い込んだ厄介もの』として1993年2月まで連載を続けた。

最後の文章は、アメリカの野球監督が言ったという有名な叱咤激励を引用し、

「試合というのは、終わるまで終わらないんだ」
まっそういうことですよ、みなさん。

46歳の若さで妻と娘を残し逝去した、稀代の作家アラン ブース氏が遺した数少ない著作には、現代に生きる私たち日本人がもう一度立ち止まり考えるための『失われゆく風景』が記録されている。

そんな著作に出会い、25年前に日本の山野を一人歩いたガイコクジンがいたことを忘れないために記録として残す。