魂の所在~今あること。そして未来へ

プロフィール
ぺくさんさん
どうも。
ちょっと年はいってますが、
年取ってますます元気です!!

ふるさとへUターンして、ようやく調子を取り戻しました。

都市生活で疲弊していた身体が、長良川と森の精霊によってリライブしています。

このかけがえのない地域を未来の子供達に残していくために、まだまだがんばる所存です。

流域のみなさんよろしく!!!



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井上博斗ライブin嘉利(郡上白鳥)
郡上の唄人・井上博斗が本日、オーガニックカフェ嘉利で郡上の唄を歌います。

知らない人もいると思うのでプロフィールを紹介します。

香川県出身現在30歳

2006年に音楽家・桃山晴衣と土取利行に出会い、両氏が拠点とする郡上八幡・立光学舎に通い学ぶ。
2010年より学舎スタッフとして「伝統を踏まえた創造」をテーマに企画・プロデュースを行う。
これまでに炉辺座会「いろりわ」、「立光学舎音楽会2011・2012」、「地の声ライブシリーズcafe eBANATAw」、今年5月の「郡上八幡音楽祭2013」をプロデュース。

昨日は、カンカラ三味線の歌師・岡大介君の歌を聞かせてくれました。

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井上博斗のうた ~ 地の声・ときの声 ~

地声をフルに使って唄う日本の唄者たちをもっと知りたいという
積年の私の思いは、まずは自分がそうあるべきではないのか、
という問いを含んでいます。
そして、土地の唄よりも、誰かの歌が圧倒的に多様に見え
現代の中で、私の「うた」への衝動は、
土から生れた唄の根を愚直に探ってみたいというものです
今はただ、
それが好きで気持ちがよいから唄うというだけのものですが、
それがいつかは、根をはり芽を出すこともあるかもしれません…。
今回は、あしもと郡上の古謡を中心に唄ってみようと思います。
ぜひご参集いただければ幸いです。

*とき: 6月22日(土)18:30開演
*参加費: 1オーダー + 投げ銭(自由料金)
19時30分からは、5月6日開催された「土取利行・ノルムマチ公演」のビデオ上映会もあります。


〒501-5114 岐阜県郡上市白鳥町那留1498番地200
郡上おどりとその発祥について
郡上市在住の郷土史家である高橋教雄先生が今年出版した『歴史探訪 郡上踊り』
が岐阜新聞に紹介されています。

岐阜新聞ウェブ
以下抜粋----------------------

これまで1600年ごろとされていた発祥を「1700年代中ごろ」とする新説を展開。「考え得る最良の資料で導き出した答え。地域の財産である踊りの史実を見直すことは大切」と語る。

郡上おどりの発祥時期は諸説あり、髙橋さんも委員を務めた郡上八幡町史史料編纂(さん)委員会は1600年ごろと推定、1991年には同町で「郡上 おどり400年祭」が開かれた。だが髙橋さんは「推測に基づいた虚構では」という思いからその後も研究を続け、「郡上地域における盆踊りの萌芽(ほうが) は、宝暦・明和(1751~71)ごろ」と結論付けた。

 また、白山信仰の神事から派生した「バショウ」踊りと、江戸時代に6度も郡上地域へ巡行した伊勢神宮外宮の御鍬(おくわ)様を歓迎するための「懸 (かけ)」踊りを「郡上の盆踊りの源流」として紹介。白鳥おどりが本来の拝殿踊りを継承しているのに対し、郡上おどりは拝殿の規模が小さかったために橋で 踊り、それが路地へと広がっていったことなど、二つのおどりが異なっていった変遷にも触れている。

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これまでの定説である郡上踊り400年の歴史を信じている人には、多少ショックな内容であるこの新設は、歴史資料の検証をもとにした新たな設としてかなりの精度が認められる。

この説のもとになっている「御鍬祭り」の記述は、郡上地域の各所に残っていて、伊勢からもたらされたというこの祭りが、うたと踊りによって集落から集落へと引き継がれていったという歴史が、今日「かわさき」など風流おどりとして地域に継承されていったのではないだろうか。

そう考えると、郡上踊りのルーツは、伊勢からの風流文化(民衆の自己表現)と白山信仰に残る神おろしの呪術的祝祭儀礼、および念仏衆の懸けおどりの文化が習合して出来上がったと考えて間違いないのではないかと思う。

「御鍬祭り」が"ええじゃないか"のルーツ的な民衆の自発的自己表現の先駆けとなっていることを考えると、郡上おどりのルーツは定説となっている「殿様に奨励されて」という受動的なものではなく、まさに民衆の爆発的自己表現をその根幹に宿している芸能と言えるのではないだろうか。

郡上おどりが市井の人々に愛されつづけられる理由の本質はそんなところにあるのかもしれない。


 




あまちゃん 忠兵衛 名言集
その壱

― アキは忠兵衛に引っ越してきた経緯を説明した。
「というわけで夏からずっと居座ってる状態なんです。ごめんね説明が下手で」
「ま~。半分も分からなかったが、ここが好きなのはよーくわがった」
「好きだ!東京より全然好きだ!海も人も電車もウニもまめぶも全部大好きだ(笑)」
「オラも好きだ」
「だったら船さ乗るの!?なんで年に10日しか帰ってこないの?生きていくため?」
「それもある。海が好きなのもある。だが、あえて言うならここが良い所だっていうのを確認するためだな。ほら夏さんは北三陸を一歩も出た事無えべ?だから オラが代わりに世界中を旅して回ってよ色んな国の色んな町をこの目で見て回ってよ、んでもやっぱここが一番いいぞって教えてやるんだ」
「東京よりも?」
「北三陸も東京もおらに言わせれば日本だ(笑)」
「かっけえ~!!ウフフ(笑)」



その二

「おじいちゃん。遠洋漁業って面白え?船の上ずっといるんでしょ?退屈しねえの?」
「するさ!ものすげえストレスだ。男ばっかり四六時中顔突き合わせてよ飯もほぼ毎日一緒、狭いベッドさ横になっても疲れ取れねえ」
横で聞いていたユイがしかめ面になった。
「私、無理。絶対」
しかしユイの反応を見た忠兵衛は笑った。
「おらも無理だ(笑)」
「じゃあ、なして行ぐの?」
「余計な事考えなくて済むからな。陸さいる限りオラ日本人だ。日本の常識で量られるべ?でも海は世界中繋がってるべ?中国だからって中国語喋る訳じゃねえ。アメリカのマグロも英語喋んねえ。だからオラも日本語喋んねえ。マグロは魚類!カモメは鳥類!オラは人類だ!」
「かっけえ!」
忠兵衛はアキが言った言葉の意味がわからなかった。
ユイが忠兵衛に“かっけえ”の意味を教える。
「ほらな!日本語もわからなくなってる!へへへへへ(笑)」

「…アキ、北三陸が好ぎか?」
「うん、おらここが一番好きだ(笑)」
「そうか。アキがそこまで言うんだったら帰ってくるべ(笑)」
忠兵衛はアキの頭を強く撫でた。


--------------

二つとも
NHKの朝の連続ドラマ「あまちゃん」の中で、遠洋漁業の漁師である主人公アキの祖父から語られる言葉であるが、

ここに、大切な世界観が日常会話の中に差し込まれている。

地域主義と国際主義の二つだ。

二つと存在しないかけがえのない場所としての北三陸を、世界を旅する中で、ロケートし、その位置と意味を確認するということ。

ともすれば偏狭なナショナリズムに取り込まれてしまいそうな現代社会を"海"という視点から再設定することによってその国際性(インターナショナリズム)を獲得する視点だ。

そんな忠兵衛の世界観をアキは、カッケー(カッコイイ)と思う。

作家であるクドカンの脚本のがきらりと光るのはこのような言葉がちりばめられているからだろう。


タグ: あまちゃん
韓国パンソリ映画「風の丘を越えて(西便制)」上映会
日韓パーカッションアンサンブル プレイベント第3弾!! 
   



林權澤(イム・グォンテク)監督による1993年の韓国映画。1960年代ころの移りゆく現代社会を舞台に、韓国の伝統芸能・パンソリにたずさわる家族 の、情愛と芸道に関する物語です。韓国映画史上でもトップを誇るといわれるほど、韓国芸能における精神性や業を見事に映画化し、爆発的なヒットを記録した ものです。

日時 2013年4月29日(月祝) 午後7時より
場所 郡上八幡 願蓮寺本堂
費用 カンパ(日韓パーカッションアンサンブル協賛金)

あらすじ
山奥の酒屋兼旅籠にドンホという男が訪れる。彼は、パンソリ唱者である養父のユボンとその養女ソンファを探しているのだった。ドンホは、女主人から消息を聞かされる。

ドンホが幼かった頃、ドンホの母である後家のもとに居ついたのが旅芸人のユボンと、その養女のソンファだった。ドンホの母は出産の際に落命し、ひとり残さ れたドンホは、ユボン・ソンファとともに旅芸人となる。ユボンは、ソンファには歌を、ドンホには太鼓を教え込むが、修行は厳しく、生活も楽ではない。時あ たかも西洋音楽が流行するようになり、パンソリは古い芸能として忘れられつつあった。ある日ドンホは、衰退しつつあるパンソリに固執するユボンと言い争 い、そのもとを飛び出す。

しかしドンホは、ユボンとソンファを懐かしく思い出すようになる。薬の仲買人として旅をしながら、彼らの足跡を辿るドンホは、パンソリの奥底にある「恨(ハン)」を極めるために壮絶な親娘の生を見出すのだった。

ユボンは、漁村で暮らしているというソンファに会いに行く。

映画詳細 http://www.hf.rim.or.jp/~t-sanjin/rim_sopyonje.html
志摩の特殊神事と円空仏をめぐるツアー

郡上市・志摩市友好交流提携協定2周年を記念

して下記のツアーを開催します。



このツアーは郡上市から伊勢志摩に向かうツアーですが、遠方の参加者については、羽島駅(東海道新幹線)で合流することができます。(ツアー料金は同額です)
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円空佛と天下の奇祭、お田植え神事と志摩半島の風光をめでる
超デラックス2日間の旅(略称 円空・志摩の旅)

旅行日時 平成25年06月23日(日)~24日(月)1泊2日  

行  先    三重県志摩市他

旅行代金 おひとり 28,000円 (あくまで概算 参加人数によりかわります)

宿泊場所 志摩市志摩町和具 パール・グルメ・イン竹正
                    TEL.0599-85-4147

募集人員: 35名(最少催行人員:20名) 申し込み順に定員に達したとき締め切ります。
 
旅行コース 
第1日 
郡上市白鳥町発(朝7時)→白鳥IC→高速大和→高速八幡→岐阜羽島IC→
JR岐阜羽島駅(9時半頃)→岐阜羽島IC→伊勢西IC→伊勢内宮・昼食→朝熊岳金剛証寺→二見おきたま神社→ホテルで講話と夕食、宿泊
 

第2日 

ホテル→片田三蔵寺→立神少林寺→伊雑(いざわ)宮(自由昼食)お田植え神事を見学→伊勢西IC→岐阜羽島IC→JR岐阜羽島→岐阜羽島IC→白鳥IC→白鳥帰着(21時頃か、道路事情による) 

 
宿泊施設  4名を基本に (ご夫婦をのぞく)
食事条件  朝食1回、昼食1回、夕食1回
全行路貸切バスを利用します 
カンタンな雨具、オペラグラス(双眼鏡)、帽子(風につよいもの)の持参をおすすめします
ご旅行条件(省略
協賛 白鳥観光協会 郡上市・志摩市交流協会 
実施 株式会社白鳥交通 代表取締役 尾藤安正  
        岐阜県郡上市白鳥町中津屋881-1                                               
 ※申し込みは、下記あてに願います。
  株式会社 白鳥交通  担当者 土屋周平ほか TEL 0575-82-5081
                                                                    FAX 0575-82-5635
                    
 [備考]: 新幹線の利用(下り) 東京07:33            岐阜羽島09:33
                (上り) 新大阪08:13    岐阜羽島09:11
神々の深き欲望
三國連太郎が亡くなった。

俳優という職業を「人に非ず、人を憂う」という言葉で表し、その生涯を俳優として生ききった。

俳優になる以前の生い立ちを見ても、その人生がいかに過酷だったかがわかる。

wikipedia引用--------------

母親は16歳で一家が離散し広島県呉市海軍軍人の家に女中奉公に出され、ここで三國を身籠り追い出されて帰郷した[3]。たまたま静岡県沼津駅で知り合った父親となる人物の仕事先だった群馬県太田市で結婚し三國が生まれた。このため三國は私生児となる。この育ての父親は電気工事の渡り職人で、三國が生後7か月のとき、一家で父親の故郷・静岡県西伊豆に戻った。その後、三國は旧制豆陽中学を二年で中退するまで土肥町(現在の伊豆市)で育った[4][5]。中学時代は水泳部。下田港から密航を企て青島に渡り、その後釜山で弁当売りをし、帰国後は大阪でさまざまな職に就く[6]

1943年12月、20歳の三國は大阪で働いていたが、徴兵検査の通知が来て故郷の伊豆に戻り、甲種合格後、実家へ戻った[7]。すると「おまえもいろいろ親不孝を重ねたが、これで天子様にご奉公ができる。とても名誉なことだ」という母の手紙が来た。自分に赤紙(召集令状)が来たことを知った三國は、「戦争に行きたくない。戦争に行けば殺されるかもしれない。死にたくない。何とか逃げよう」と考え、同居していた女性とすぐに郷里の静岡とは反対の西へ向かう貨物列車に潜り込んで逃亡を図った。逃亡四日目に無賃乗車で乗り継いで山口県まで来たとき、母に「ぼくは逃げる。どうしても生きなきゃならんから」と手紙を書いた。親や弟、妹に迷惑がかかることを詫び、九州から朝鮮を経て中国大陸へ行くことも書きそえた。数日後、佐賀県唐津呼子で船の段取りをつけていたところで憲兵に捕まり連れ戻された[6]。しかし処罰は受けず、皆と同様に赤ダスキを掛けさせられて、静岡の連隊に入れられた。中国へ 出征する前、最後の面会にやってきた母が「きついかもしれんが一家が生きていくためだ。涙をのんで、戦争に行ってもらわなきゃいかん」と言ったとき、三國 は母親が家のために黙って戦争に行くことを息子に強要し、逃亡先からの手紙を憲兵隊に差し出したことを知る。家族が村八分になるのを恐れ涙を呑んでの決断 だったという[6]。 中国大陸の前線へ送られた三國の部隊は総勢千数百人だったが、生きて再び祖国の土を踏めたのは二、三十人にすぎなかった。戦地へ向かう途中、三國は身体を 壊し、熱病にかかる。十日間意識不明になり、死んだものだと思われて、工場の隅でむしろをかぶせられて放置されていたが、焼き場に運ばれいざ焼く番になっ てむしろを剥がしたら目を覚ましたという。漢口の兵器勤務課に配属されてこの部隊で終戦を迎えた[8]

敗戦時、三國は収容所に入れられ、独自に作った化粧品などを売って過ごした。中国からの復員の際に、妻帯者は早く帰国できるということで、同じ佐藤姓の女性と偽装結婚している。佐世保から広島を経て大阪に戻り、多種多様な職業についた[9]。なお復員時に鉄道で広島駅へ達した際には、駅から四国が望まれ、原子爆弾の脅威を知る。

1948年、女児を身ごもっていた妻と離婚。鳥取県倉吉市へ行き、近くの三朝温泉へ行ったとき、戦争中に満蒙開拓団に関係していた人と知り合いになり、その紹介で県農業会(のちの農業協同組合)に入り、当時の長だった岩本氏の秘書を務めながら農村工業課を新設、サツマイモの澱粉からグルコースを採取する仕事を指導する。

宮崎交通を経て、1950年東銀座を歩いていたところ松竹のプロデューサー小出孝にスカウトされ、松竹大船撮影所に演技研究生として入る。スカウト時には、プロデューサーの「大船のスタジオにカメラテストに来てくれないか」との言葉に、「電車代と飯代を出してくれるなら」と答えたと三國本人が述懐している。-------------

また彼は、養父が被差別部落出身であったということから、差別問題についても深い見識を持っていて、それが彼の役者としての基層を作り出している。

差別と芸能の深層―三国連太郎・沖浦和光対談

彼の主演映画の中で、最も印象深いのは『神々の深き欲望』という今村昌平監督の作品だった。

昭和60年代に始まる高度経済成長が、本土から遠く離れ、前近代的な生活を続ける小島に開発の波として現れ、それまでの地域コミュニティーの根幹を破壊していく様子を、古代から繰り返し続く神話の物語のように表現している秀作であった。

放射能汚染、メガクウェィク、ロケット攻撃、爆弾テロさまざまな恐怖にさらされている現代人にぜひ見てもらいたい。

万川亭通信(467)~岩尾屋コクーンホールのコケラ落とし
        口      上     
 
 東京銀座の歌舞伎座が、コケラ落としをしたと云う。それと別に張り合うわけではないが、この白鳥でも新しくミニ・シアターを誕生させる。名づけて、コクーン・ホールという。コクーン cocoon とは、英語で繭玉のことある。お蚕さんの繭玉のように小さな可愛らしい劇場という意味で、仮にこう名づけた。
 
 私事で恐縮だが、亡妻の実家は昭和の戦前までは、この白鳥町でマユ問屋を営んでいた。屋号を「岩尾屋」といい、当時の家構えが現在も残っている。玄関を入ったところにマユの計量場があった。
吹き抜けの
高い天井、広い板の間にはマユの目方をはかる旧式の計量秤台が今も置かれたままだ。
反対側にはマユの目方を帳面に記録する帳場と座敷があり、かつては近郷近在で集めたマユを大八車に積んで道路からそのまま屋敷のへと引き入れた。そのため玄関の敷居は取り外しがきく仕掛けになっている。

車から下ろ
たマユ玉はここで計量と記帳をすませ、そのあと熱処理を加えて収納蔵で出荷の時を待つ。
一部は屋敷内の糸繰り場で生糸にされたともいう。
 
 日本近代の歴史は養蚕と切り離せない。十九世紀末、当時のヨーロッパの絹の生産地であったフランス、イタリアで蚕の病気が流行したこともあって、日本産の生糸が飛ぶように売れた。横浜港から積み出される生糸蚕卵紙の輸出代金がどれだけ明治、大正期の日本の近代化に寄与したかは知る人ぞ知る、である。
 
 新橋、横浜間を走った日本最初の蒸気機関車をのぞいて全国の鉄道の敷設や道路、橋、港湾の整備、製鉄工場の建設等々、近代化に欠かせない経費を、近代日本は外資に頼ることなく、ほとんど自前でまかなったが、その膨大な金額の大部分が、農家の副業として営まれた養蚕と製糸業とで稼ぎ出され、おかげで日本は欧米列強の植民地となることを免れたのである。
 このことを、果たして今の若者はどれだけ知っているだろうか?
 これと、第2次大戦後に独立した東南アジア諸国が、その国家建設の費用の大部分をODAなどの外国援助でもっぱら外部資本に頼っている事実とを比べて考えてみるがいい。
 
 横浜の生糸相場を知るために問屋にとって電話は欠かせないものだった。警察署、町役場についで岩尾屋の電話番号は3番であった。この電話で岩尾屋は横浜の相場の動向を知り、出荷の時期を図ったのだが、言うなれば、この奥美濃の山村の一喜一憂は、岩尾屋を介してロンドンのロンバード街の世界資本主義に結び付けられていた、ということにもなる。
 
 わたしは、この近代日本の歴史の記憶をとどめた旧家の遺構をなんとか現代に蘇えらせたいと考えた。
そこで思いついたのが、これをミニ・シアターとして復活させることであった。
 
 四月六日の土曜日、筋向いの酒蔵では新酒の試飲会が盛大に催される。わたしの友人の何人かも、これに参加するが、そのなかの一人にクラシック・ギターの演奏家、弘井俊雄氏がいる。わざわざ兵庫県の芦屋から来られるのだが、むろん、当地は初めてである。
 
 わたしは弘井氏が来られたら、この即席のシアター「岩尾屋コクーン・ホール」に案内し、ギターの音色が旧家の木造りの空間でどのように響きわたるか、それを試してもらいたいと願うそしてもし弘井氏の気が向けば、試験的にここで小さな演奏会を開いてみようとさえ考えている。
 そのとき、百年の旧家の太いウツバリの上に久しく積もった梁塵は空中に舞い上がり、試飲会のほろ酔いの耳に、ひと時の感興を呼び覚ますだろう。 もしかしたら、戸外から誘い込まれたように、ほのかな梅の香もただよい入ってくるのではあるまいか?
 
ミニ・コンサート(予定)      
  日時・・・・・四月六日(土)午後八時頃から約六十分
  場所・・・・・岩尾屋(白鳥・大和屋さん向え)
 
※ 岩尾屋の記述については同家の主婦、原 恵子さんから種々教示を受けた。あらためて感謝する。
 
                                       二〇一三年四月五日                                
越美文化研究所 水谷慶一  
万川亭通信(462)~円空大学宣言
 去年の夏の『いとしろ・シンポジウム』の続きを、今年からは円空さんをテーマにやろうと心に決め、昨夜、地元の腹心の面々と談義をこらした。それが刺激となってか昨夜は円空さんの夢まで見た。 徳川時代の僧侶にして奇妙なことに、菜っ葉服で長髪だった。

 わたしがやりたいのは、
一部の好事家の手から円空さんを奪い返して、もし言葉が過激すぎるなら「丁重に頂戴して」、円空さんをわれわれ凡人の手にとどく、真に生きる糧(かて)とすることである。

 円空さんはいろんな顔、姿のホトケやカミの
像をつくっている。これだけ多種多様な仏像、神像をつくった人をわたしは知らない。なかには神とも仏ともつかぬ、強いて言うなら「妖怪」とでも言うしかない像もある。
魑魅魍魎(ちみもうりょう)、怪力乱神のたぐいを、円空は十一面観音や薬師如来の像と平気で並べて造りつづけた。
 
 日本の神々を分けて「天神・地祇(てんじん・ちぎ)」という。円空さんはどちらかというと、後者の「地祇」の像を数多く制作している。たとえば、今度、東京上野の博物館で展示している「両面スクナ」の像がそれである。この二つの顔をもった怪物は、かっての飛弾の国の英雄であった。仁徳朝の頃、中央政府によって討伐されたが、今も飛弾地方では古代英雄として尊崇を集めている。つまり、国家のカミ、中央のカミではなく、地方の、田舎の、土俗の神々を、あきもせず、生涯かけて執拗につくりつづけたのが、円空であった。
 
 このことは、実はタイヘンナコトダと、近頃わたしは思うようになった。
どうタイヘンなのか、は追々それを明らかにしてゆくが、その過程をそのままシンポジウムにしてみては、と今朝になって考えた。名づけて 「円空大学」これを、わが「越美ぶんけん」の当分の仕事としよう。
 
 大学といっても、東京大学だの慶応義塾大学、京都大学などの「大学」ではない。どちらかというと、駅前大学、駅弁大学、大学イモ、大学目薬などというたぐいの「大学」である。誰でも入れて、いつでも退学でき、まったく出入り自由の大学である。しかし、前者の大学にくらべて、キャンパスはめっぽうに広い。
 なにしろ円空さんが
遊行したところ、北は北海道から東北、関東、中部、近畿の各都道府県にひろがっている。
 教授などはいない。
みなが学生である。しかし、けっしてアマチュア集団ではない。宗教、美術、文学、音楽、芸能、工藝、建築、土木、耕作、園芸、等々いろんな方面の専門家もいれば、ただたんに、その人が混じっているだけでみんなの顔が明るくなる、という特技の持ち主もいる。
 
 そういう大学を、今流行のNPO法人として発足させようと思う。賛成する人、意見、異論のある人はどしどし発言してください。
以上、
1848年のマルクス・エンゲルスの宣言にならって標題とした次第である。
           二〇一三年四月二日 エイプリルフールの翌朝
水 谷 慶 一
501-5121岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007
越美文化研究所
万川亭通信(461)~あえて私事に渉る
 わたしの私生活などに興味をもつ人は一人もいなかろうが、妻を亡くして以来五年、ようやく私なりの生活のスタイルができつつある。まず朝風呂の習慣である。「おはら庄助さん」じゃないが、三日に一度は早朝まだ暗いうちにに起きて風呂を立てる。そして入浴後、その湯を洗濯槽に注ぎ込んで着ていたもの一切がっさいを抛り込む。
 今日
のような上天気だと至極、都合がいい。手早くテラスに干したあと、長良川の土手をたっぷり1時間かけて歩きまわり、そのあと両手に1.5キロ鉄亜鈴を握って我流の体操?をする。この土手歩きと我流の体操の間に、実にいろんな考えが湧く。
 
 わたしのアイデアの大半はこの長良川の土手の上で産まれたものである。ほかの時間には何も思いいつかない。
ただ惰性で過ごしている。だから、頭で考えるのではない、わたしの実感からすれば「足で考える」というのが正しい。
ひと時、テレビによく出ていた天然パーマの脳科学者が何とノタマオウと、大脳はほとんど関係しない。
 人間は「足で考える」動物である。シェイクスピアの『ハムレット』でも、主人公は歩きながら考えている。
   Words, words, words........
第二幕第二場の有名な場面、ハムレットは始終、歩き回っている。いっぽうノーテンキのポローニアスは突っ立ったままだ。「足で考え、手で想う」 いつからか、そんなふうに思い込むようになった。
 
 「手で想う」という場合、わたしがイメージするのは、広隆寺のミロクボサツ、正式には、弥勒菩薩半伽思惟像である。 あの頬っぺたにそっと触れる細い指先に、このホトケの深い想念が凝集したかのように見える。
 
 長良川の河原には白鳥が一羽、棲んでいる。スワンではなく、サギのような長い脚をもった鳥である。
シロトリという地名はこのオレサマがいるお蔭だぞ、といわんばかりに、いつも傍若無人、まさにカタワラに人無きがごとし、である。時々、流れの中に突っ立って魚を狙っているふうも見せるが、たいがいは河原のまんなかで石像のごとく動かない。ちょっと淋しそうでもある。その白鳥が、あろうことか、今朝は二羽、つがいになって翔んでいた。
翼を思い切り上下に大きく羽ばたかせて、上流へ、はるか白山連峰にむかって飛んでいった。
 
 さては、通い妻でもあったのか。あんちくしょう、なかなか隅におけないヤツである。
こちとらは、近く八十二歳の誕生日を迎えようとしている。今日も天気晴朗というところだ、呵々
              二〇一三年四月一日 エイプリルフールの日
 
越美文化研究所 水谷 慶 一

裸足の学校
昨日見るとはなしにテレビを見ていて魅力的な人物を見つけた。

その番組は「スーパープレゼンテーション~言葉で世界を変える」というアメリカのTV番組である。

番組タイトルからして私の興味範囲ではないのだが、その回に登場した人物のプレゼンは魅力的だった。

名前はバンカー・ロイ、タイトルは「裸足の学校”から学べること」であった。

72年からインド西部に「裸足の学校」を設立し、識字率の低く貧しい集落の中で学校を作り、女性たちには、ソーラー発電の仕組みや機材の作り方を言葉や身振りで伝え、夜は仕事で学校に通えない子供たちの教育の場を生み出した。

識字率が低いという致命的なハンディキャップを逆手に取り、女性が本来持つ特性であるコミュニケーション力、伝達能力をフルに発揮してもらうことで、きわめて効率的な教育システムを作り上げてゆく。

そして、教えられる人が教える人となり、たちどころにそれは、他の地域や国外へ広がり、生活の安定と雇用を生み出してゆく。

彼が語った言葉で記憶に残ったことが二つある。

今日の世界でのコミュニケーションの最良の方法は何ですか?
テレビ NO , テレグラム NO, テレフォン NO,  Women Yes!


あなたは外部に解決策を探す必要はありません。
内側にあるソリューションを探して、人々に耳を傾ける。彼らはあなたの目の前にソリューションを提供しています。世界銀行に耳を傾けないでください。地上の人々に耳を傾ける。彼らは、世界のすべてのソリューションを持っています。




再放送は週末日曜日の深夜0:45からです。
http://www.nhk.or.jp/superpresentation/backnumber/121105.html
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