魂の所在~今あること。そして未来へ

プロフィール
ぺくさんさん
どうも。
ちょっと年はいってますが、
年取ってますます元気です!!

ふるさとへUターンして、ようやく調子を取り戻しました。

都市生活で疲弊していた身体が、長良川と森の精霊によってリライブしています。

このかけがえのない地域を未来の子供達に残していくために、まだまだがんばる所存です。

流域のみなさんよろしく!!!



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書評『鄙への想い』田中優子著


図書館で借りた本で書評を書くなど、著者には大変失礼なことと思うがご勘弁を。

図書館でパラパラとめくってみた印象は、白洲正子の著作かくれ里のイメージだった。

でも、テレビでよく見るコメンテーターの雰囲気と、現在の職務法政大学学長という肩書からするときっと、右脳的(左翼的とは思わないが)な表現なのだろうなという感じもしていたので、当たらずとも遠からずという感じだ。

鄙とは、都(みやこ)に対する周辺地域。ひなびた地域という意味です。

簡単に言うと、都と鄙の関係を、専門の江戸近世文化論から近代社会批判を提起する内容となっています。

近世まで日本にあった、あの世とのかかわりや、コミュニケーションの意味を、3.11のような現実問題から問うています。

近世と近代の決定的な違いは、表面化した西洋化やグローバリズムによる均質化の基となる、"国"のとらえ方であると言います。

江戸は270以上の藩からなる州政府であったので、人々にとっての"くに"は元来藩という自分が所属している具体的な"場所"であったということです。

それが近代というピリオドを迎える中で、西洋社会の作り上げた抽象概念として国家にすり替わったことが、それ以前の日本の自然観や社会観、生死観を大きくかえていったのです。

だがしかし、今日の問題はグローバリズムか、ローカリズムかという問題では解決できないとも書いています。

"鄙を生きる"大切な考え方として、大きなシステムに依存する仕組みから脱し、小さな仕組みやコミュニティーで生きる単位を生み出していくことだと言います。

では、都市での生き方はどうすればいいのか?著者は江戸がそうだったように都市で生み出されたもの、排出されたものを、都市の中で処理し、リサイクルし、海や大地に戻すという倫理や思想が必要だと言います。

福島原発の事故の事を引き合いに出すまでもなく、近代都市が生み出している人工都市幻想からの脱却をするためには、異質なものや生活リスクを外部に排除することのない仕組みが必要だと結びます。

分析や論法、到達した想いについては、とても合意できる内容でしたが、過去の人物の著作や事象の引用が多く、田中氏の独創的感性(左脳的)が十分発揮されていないところが残念と言えば残念でした。




面白い夢を見た
なかなか見た夢を思い出せないタイプですが、今日見た夢はリアルでした。

せっかくなのでここに記録しておきます。

私は昔暮らしていた家の道隣に祖父の為に借りていた古びた借家(倉庫のような)に友人と暮らしていました。

周りも何件か借家があり、平屋のトタンのぽろっちいものです。

そこにある時、住人が引っ越してきました。 

知らないうちに家の庭先に、太いロープを三本地面に打ち付けてぐるりと屋根の補強をしていました。

不審者のようなその隣人を見つけて「そのロープ駐車するのに邪魔だと言われるよ」と忠告すると、その隣人は無愛想にそれには答えず「灰皿ないか~?」と関西弁で聞きます。

灰皿なんて沢山あったので一つあげると「家財道具がなにもないんや~」と他人事のように言いました。

どう見てもうさん臭そうな隣人に「仕事は何をしてるん?」と聞くとそれにも答えず、タバコを美味そうに吸っています。それから「自分は〇〇というんや」と名前を教えてくれました。

以前関西でバンド活動していた友人から「関西には〇〇という一流のジャズプレーヤーがいるよ」と聞いたことがあることを思い出し、「音楽は好きか?」と聞いたら、その隣人はこちらをじろりと凝視し「なんでそんなこと聞くん?」と答えました。

その後の夢は覚えていませんが、何かこれから始まるだろうことにワクワクした感覚だけが残りました。

なんだか忙しくなってきた。




ので、なかなかリラックスしてブログを書く時間が持てず、長いブランクが出来てしまいました。

普通の人はきっとそんな感じで書いているんだろうけど、私がひますぎたのだと今にして理解できました。

さてそんなこんなで、今日は書評(感想文か?)を一つ。

"神去なあなあ日常"というおよそ本のタイトルとしては編集者に嫌われそうな名前をそのまま付けたような小説だが、これが今巷でロードショー中の映画『WOOD JOB』の原作だという。

原作者の三浦しをん については、以前レンタルで借りた『まほろ駅前多田便利軒』が思いのほか秀作だったので、その原作者を知った程度だから、ファンというレベルでは決してない。

なので、今回の映画『WOOD JOB』もまだ見ていないし、さらにはその原作となっているという"神去なあなあ日常"も読んでいないのだ。

読んでもいない、書評を書くという離れ業をするわけではないが、たまたま図書館で返却されたばかり棚みたいなものが目の前にあり、その中に聞いたことのある名前のタイトルの小説があったから手に取ったただそれだけだ。

家に持って帰りページを開いて見るまではそれを原作と思い込み、これを読んでから映画を見るかどうか決めようとおもってたのだが当てが外れた。

そのタイトルは似ているが"神去なあなあ夜話"という別物だった。

いやよく見ずともだいたい気が付いていたのだが、日常よりも夜話のほうが好きなたちなのでそのまま借りたのだ。

だって一緒に借りた本は三角 寛の"山窩奇談"だもの、だいたいがそっちだ。

だから、この本が前篇(日常)の後編的なものなのか、日常に対する非日常的なものなのか比較すらできない。


読み進めていくと、今っぽい小説(失礼)の雰囲気であることがすぐわかり、漫画のように読み進めることができた(決して批判的ではない)


しかし、一緒に借りた"サンカ本"は、小説としたらルポルタージュ奇談の類なのでそれなりにリアリティーがある。


そんな本を一緒に読むのも間違いと誰かに指摘されそうだが、それなりに面白い。

こんなに時代もジャンルも違うものなのにどこか共通性があるのだ。

それは、乱暴に非日常性といってしまってもかまわない。

近代社会や都市社会が排除してきた、マージナルな部分、境界の向こうというか、あの世というか、非定住という世界が小説の舞台になっているからだ。
(正確には山窩奇談は小説としては書かれていない、あくまでもジャーナリスティックな文体なのだがあまりにも物語的な要素が強いのだ)

昔、三重の山奥の村にいた竜神が去った神去村には、その奥山に熊野修験の大峰山系が続き、そこはこの世とあの世が連続している世界である。

WOOD JOBという今流行りの自然にやさしいお仕事は、実は大自然という荒ぶる神々を相手にするヤマト武尊のような修行に近い。

きっと映画でもそんな、リアリティーを背景として見せながら、今の若者達にも魅力的な映像に仕上げているのだろう。

実はまだ最後まで読んでいないので、どう考えても書評はかけないのだ。