魂の所在~今あること。そして未来へ

プロフィール
ぺくさんさん
どうも。
ちょっと年はいってますが、
年取ってますます元気です!!

ふるさとへUターンして、ようやく調子を取り戻しました。

都市生活で疲弊していた身体が、長良川と森の精霊によってリライブしています。

このかけがえのない地域を未来の子供達に残していくために、まだまだがんばる所存です。

流域のみなさんよろしく!!!



QRコード
アクセスカウンタ
Total:970387
Today:47
Yesterday:107
| 1 | 2 | 最初 | next>>
万川亭通信(506)~フクシマ飯舘村報告会
 種子島の宇宙ロケットが秒読み段階で中止になった。現代科学の粋を集めたと
自他共に許すものでさえ、そうである。起こりうる可能性をいくら見積もっても、なお
事故は避けられない。そういう科学技術の限界を十分にわきまえて、取り返しの
つかない危険性をはらんだ原子力発電には手を染めない、これが3.11原発
事故が残した教訓であったはずである。しかしながら、現実の事態はそれに逆行
してるかに見える。
 このたび
郡上の若者達が計画している、来る9月1日のフクシマ・飯舘村報告会について主催者のことばを、以下にかかげる。(水谷)
 
(ことば)

 原発事故により深刻な放射能汚染が村内に広がっている飯舘村では、今も自分の村に帰ることができず家族がバラバラとなる避難生活が続いています。

 3.11以前には当たり前であった平穏な暮らしと生業を奪われ、慣れない仮設住宅での暮らしからいつ解放されるのかさえ目途のたたない状況から既に2年半になろうとしています。
 20136月、私たちは郡上からフクシマの飯舘村現地へ向かい、集落と村民の暮らしの状況を直接知る機会を得ました。
 私たちが体験した
今のフクシマ・飯舘をより多くの人に知ってもらうため今回現地報告会を企画しました。マスメディアからの情報では見えてこないフクシマの現実をより多くの方に知ってもらい、身近な問題として考えていただく機会として多くの市民の参加を期待します。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

開催内容「フクシマ飯舘村の今を知る報告会」

   終わりの見えない仮設暮らしとふるさとの未来~

開催日  201391() 開場 午後1時半、開演午後2
場 所  郡上市総合文化センター 2階 多目的ホール
     岐阜県郡上市八幡町島谷
207-1
参加費  大人1,500円 子供無料(中高生含む)
報告内容  ・現地訪問の経過と報告
      ・飯舘村避難者から「飯舘村の二年半」
      ・「先の見えない避難生活」について
      ・除染状況の実態など
主催団体 郡上・飯舘報告会実行委員会 
問い合わせ先 前田 
090-5449-5002
 *当日の報告会後に、「飯舘細川牧場の馬の怪死」についてのDVD上映(24)も行います

チラシダウンロード先
万川亭通信(502)~白鳥拝殿おどり
昨夜は地元、白鳥町野添の貴船神社に「拝殿おどり」
を見にいった。
世間では「郡上おどり」ばかりが有名だが、この
  白鳥拝殿おどり
こそ、民謡の古俗を伝えて「知る人ぞ知る」逸品である。踊りは、笛や太鼓など伴奏楽器をいっさい用いず、ただ人々がお宮の拝殿の床板を踏み鳴らす下駄の音だけをリズムにして行われる。
 
 夜八時をすぎた頃、三三五五あつまった男女三〇人ばかりが、いつのまにか輪になって踊りだした。明日が満月という空には、煌々と冴えわたる月が昇り、鬱蒼とした森のシルエットを背景に 「拝殿おどり」は始まった。
 この神社は、京都北郊の貴船神社から神を勧請して建てられたものだが、長良川の支流、牛道川の渓流のただ中にあり、神社そのものが巨大な岩盤の上に建っている。わたしは初めてここを訪れたとき、その古風なタタズマイに強烈な感動を覚えた。(京都の、あの貴船川に床を張った料亭が立ち並ぶ俗っぽさと、どうしても比較してしまうのだ)
 
 やーれ  そろりとョ  輪をつくれ  そろりャ そろりとョ  輪をつくれ
 お月のョ   輪のなりに
 お月では- 恐れ多い  天のお月ではー 恐れ多い
 
 初めてこの歌を聴いて、なんと艶やかな、そして深い哀愁にみちた旋律であろうかと感じ入り、以来、わたしはこの曲節の完全なトリコになってしまった。
聴くたびに、身の底から 深く 静かに からだの中枢を立ち昇ってくるモノがあり、やがて全身が浸されるのである。
 
 「場所おどり歌」と命名されているこの歌は、おそらく踊りの場に、まず神霊を招きよせる意味合いをもつのではなかろうか。
 拝殿の中央には、天井から切子灯篭が吊り下げられているが、紅色の紙をはったその灯篭は四方に鋭く、三角形の角を突き出していて、これは、おそらく邪悪な
霊魂や鬼の類いから、踊りの場を防ぎ守る役目を負うものと思われる。
 やがて踊りが佳境にはいった頃、近くの町や村からもヒトがやって来て、踊りの輪に加わる。
  
       若衆が見えたでよ  他所の若衆が見えたでよ
       変わるぞ  拍子さま  歌節 変わるぞ 拍子さま
 
       ご苦労 他所の殿
       先づは ご苦労 他所の殿
 
       確かに 受け取るよ  こもとが 確かに 受け取るよ
 
 歌と踊りは、それが古風なものであればあるほど、本来それがコミュニケーションそのものであったことを示している。わたしは、かって沖縄のモーアシビ(野遊び)を見たとき、つよくそのことを感じたが、本土の、それも京都に近い、この奥美濃の町で、そのことを再確認しようとは思わなかった。        (つづく)
 

(以上を記すにあたり、保存会発行の『白鳥の拝殿踊』を参考にした。 特に
 郷土史家、白石博男氏の解説は裨益するところ大であった)
 
                二〇一三年八月二十一日
 
  水 谷 慶 一
501-5121岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007
越美ぶんけん(越美文化研究所)
タグ: 拝殿踊り
万川亭通信(495)~友への返信
先週末、
東京から戻った直後に長年の友人から次のようなメールがとどいた。
 
 ・・・・・先日は折角の在京の折に会えなくて残念でした。
 一昨日の電話で、阿佐ヶ谷からとはうって変わって元気そうな貴兄の声に接して
 安心。御地の方が涼しい川風に恵まれていることと、何よりも白鳥にすっかり
 馴染んだ最近の貴兄がしのばれて誠に結構なことと喜んでいます。
  今朝のテレビで、済州島生まれの最近日本に帰化した呉善花という作家が
 韓国への入国を拒否されたということを耳にしました。以前に
      『韓国併合への道』
 という著書を読んだことがありますが、微妙な立場でなかなかバランスのとれた
 本だったように思うのですが、最近のサッカー場での横断幕、軍艦旗の騒ぎから
 こんな事になるというのは実に由々しいことで、一度貴兄の感慨を訊きたいもの
 です。 (以下省略)
 
 近頃の日韓関係は、竹島の領有や慰安婦問題にはじまって何かと物議をかもす
ことが多いのですが、これには百年前の日韓併合以来の両国の近代史がからん
でいるだけに根が深く、容易に解決のつかない難しさがあります。加えて両国の
ナショナリズムを煽る強硬論者が、コトの真実を見きわめる努力をするよりも
威勢のいい発言を連発して、それでメシを食っている連中が多いせいもあって、
問題の解決には一向役立たない。これにはまず、ナショナリズムそのものへの
視点を変革することが大切ではないか、と思います。
 
 突飛な例をもち出すようですが、あの『グリム童話』がどうして生まれたか?
1812年10月18日の日付がある初版の序文のおわりに、著者ヤーコブは、
   ---ライプチッヒの戦いのちょうど一年前に・・・・
と書き加えている。この戦闘で、ナポレオン率いるフランス軍に対し大勝利した
おかげで、グリム兄弟の祖国ドイツは長いフランスの占領下からやっと解放された。
 
 それまでの、ドイツの空が屈辱の灰色におおわれていた1806年に、兄弟は
ドイツの文学と言語の歴史に慰めと励ましを求めて、祖国に伝わる童話や民謡の
収集を始めるわけですが、その同じ年にゲーテもまたドイツの古い伝説に材をとって
『ファウスト』第1部を完成します。 
 つまり、まっとうなナショナリズムとは、本来こういうたぐいのモノでしょう。
 
 これもまたドイツの話ですが、最近、麻生財務相が日本の憲法改正を論じて、
「ナチスのようにやればいい」と発言して反響を呼びました。ワイマール憲法の轍を
二度と踏むまいと決意して出発した第2次大戦後のドイツ、冷戦下の東西分裂の
苦難をのりこえたドイツ人の国民感情を、これほど逆撫でした言葉はありますまい。
この無知と幼稚さに満ちた発言が、一国を代表する大臣によってなされる。
わたしたちは、今こういう国に住んでいるのです。
 
       二〇一三年八月六日 ヒロシマ原爆の日に
水 谷 慶 一
501-5121 岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007
越美ぶんけん
万川亭通信(467)~岩尾屋コクーンホールのコケラ落とし
        口      上     
 
 東京銀座の歌舞伎座が、コケラ落としをしたと云う。それと別に張り合うわけではないが、この白鳥でも新しくミニ・シアターを誕生させる。名づけて、コクーン・ホールという。コクーン cocoon とは、英語で繭玉のことある。お蚕さんの繭玉のように小さな可愛らしい劇場という意味で、仮にこう名づけた。
 
 私事で恐縮だが、亡妻の実家は昭和の戦前までは、この白鳥町でマユ問屋を営んでいた。屋号を「岩尾屋」といい、当時の家構えが現在も残っている。玄関を入ったところにマユの計量場があった。
吹き抜けの
高い天井、広い板の間にはマユの目方をはかる旧式の計量秤台が今も置かれたままだ。
反対側にはマユの目方を帳面に記録する帳場と座敷があり、かつては近郷近在で集めたマユを大八車に積んで道路からそのまま屋敷のへと引き入れた。そのため玄関の敷居は取り外しがきく仕掛けになっている。

車から下ろ
たマユ玉はここで計量と記帳をすませ、そのあと熱処理を加えて収納蔵で出荷の時を待つ。
一部は屋敷内の糸繰り場で生糸にされたともいう。
 
 日本近代の歴史は養蚕と切り離せない。十九世紀末、当時のヨーロッパの絹の生産地であったフランス、イタリアで蚕の病気が流行したこともあって、日本産の生糸が飛ぶように売れた。横浜港から積み出される生糸蚕卵紙の輸出代金がどれだけ明治、大正期の日本の近代化に寄与したかは知る人ぞ知る、である。
 
 新橋、横浜間を走った日本最初の蒸気機関車をのぞいて全国の鉄道の敷設や道路、橋、港湾の整備、製鉄工場の建設等々、近代化に欠かせない経費を、近代日本は外資に頼ることなく、ほとんど自前でまかなったが、その膨大な金額の大部分が、農家の副業として営まれた養蚕と製糸業とで稼ぎ出され、おかげで日本は欧米列強の植民地となることを免れたのである。
 このことを、果たして今の若者はどれだけ知っているだろうか?
 これと、第2次大戦後に独立した東南アジア諸国が、その国家建設の費用の大部分をODAなどの外国援助でもっぱら外部資本に頼っている事実とを比べて考えてみるがいい。
 
 横浜の生糸相場を知るために問屋にとって電話は欠かせないものだった。警察署、町役場についで岩尾屋の電話番号は3番であった。この電話で岩尾屋は横浜の相場の動向を知り、出荷の時期を図ったのだが、言うなれば、この奥美濃の山村の一喜一憂は、岩尾屋を介してロンドンのロンバード街の世界資本主義に結び付けられていた、ということにもなる。
 
 わたしは、この近代日本の歴史の記憶をとどめた旧家の遺構をなんとか現代に蘇えらせたいと考えた。
そこで思いついたのが、これをミニ・シアターとして復活させることであった。
 
 四月六日の土曜日、筋向いの酒蔵では新酒の試飲会が盛大に催される。わたしの友人の何人かも、これに参加するが、そのなかの一人にクラシック・ギターの演奏家、弘井俊雄氏がいる。わざわざ兵庫県の芦屋から来られるのだが、むろん、当地は初めてである。
 
 わたしは弘井氏が来られたら、この即席のシアター「岩尾屋コクーン・ホール」に案内し、ギターの音色が旧家の木造りの空間でどのように響きわたるか、それを試してもらいたいと願うそしてもし弘井氏の気が向けば、試験的にここで小さな演奏会を開いてみようとさえ考えている。
 そのとき、百年の旧家の太いウツバリの上に久しく積もった梁塵は空中に舞い上がり、試飲会のほろ酔いの耳に、ひと時の感興を呼び覚ますだろう。 もしかしたら、戸外から誘い込まれたように、ほのかな梅の香もただよい入ってくるのではあるまいか?
 
ミニ・コンサート(予定)      
  日時・・・・・四月六日(土)午後八時頃から約六十分
  場所・・・・・岩尾屋(白鳥・大和屋さん向え)
 
※ 岩尾屋の記述については同家の主婦、原 恵子さんから種々教示を受けた。あらためて感謝する。
 
                                       二〇一三年四月五日                                
越美文化研究所 水谷慶一  
万川亭通信(462)~円空大学宣言
 去年の夏の『いとしろ・シンポジウム』の続きを、今年からは円空さんをテーマにやろうと心に決め、昨夜、地元の腹心の面々と談義をこらした。それが刺激となってか昨夜は円空さんの夢まで見た。 徳川時代の僧侶にして奇妙なことに、菜っ葉服で長髪だった。

 わたしがやりたいのは、
一部の好事家の手から円空さんを奪い返して、もし言葉が過激すぎるなら「丁重に頂戴して」、円空さんをわれわれ凡人の手にとどく、真に生きる糧(かて)とすることである。

 円空さんはいろんな顔、姿のホトケやカミの
像をつくっている。これだけ多種多様な仏像、神像をつくった人をわたしは知らない。なかには神とも仏ともつかぬ、強いて言うなら「妖怪」とでも言うしかない像もある。
魑魅魍魎(ちみもうりょう)、怪力乱神のたぐいを、円空は十一面観音や薬師如来の像と平気で並べて造りつづけた。
 
 日本の神々を分けて「天神・地祇(てんじん・ちぎ)」という。円空さんはどちらかというと、後者の「地祇」の像を数多く制作している。たとえば、今度、東京上野の博物館で展示している「両面スクナ」の像がそれである。この二つの顔をもった怪物は、かっての飛弾の国の英雄であった。仁徳朝の頃、中央政府によって討伐されたが、今も飛弾地方では古代英雄として尊崇を集めている。つまり、国家のカミ、中央のカミではなく、地方の、田舎の、土俗の神々を、あきもせず、生涯かけて執拗につくりつづけたのが、円空であった。
 
 このことは、実はタイヘンナコトダと、近頃わたしは思うようになった。
どうタイヘンなのか、は追々それを明らかにしてゆくが、その過程をそのままシンポジウムにしてみては、と今朝になって考えた。名づけて 「円空大学」これを、わが「越美ぶんけん」の当分の仕事としよう。
 
 大学といっても、東京大学だの慶応義塾大学、京都大学などの「大学」ではない。どちらかというと、駅前大学、駅弁大学、大学イモ、大学目薬などというたぐいの「大学」である。誰でも入れて、いつでも退学でき、まったく出入り自由の大学である。しかし、前者の大学にくらべて、キャンパスはめっぽうに広い。
 なにしろ円空さんが
遊行したところ、北は北海道から東北、関東、中部、近畿の各都道府県にひろがっている。
 教授などはいない。
みなが学生である。しかし、けっしてアマチュア集団ではない。宗教、美術、文学、音楽、芸能、工藝、建築、土木、耕作、園芸、等々いろんな方面の専門家もいれば、ただたんに、その人が混じっているだけでみんなの顔が明るくなる、という特技の持ち主もいる。
 
 そういう大学を、今流行のNPO法人として発足させようと思う。賛成する人、意見、異論のある人はどしどし発言してください。
以上、
1848年のマルクス・エンゲルスの宣言にならって標題とした次第である。
           二〇一三年四月二日 エイプリルフールの翌朝
水 谷 慶 一
501-5121岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007
越美文化研究所
万川亭通信(461)~あえて私事に渉る
 わたしの私生活などに興味をもつ人は一人もいなかろうが、妻を亡くして以来五年、ようやく私なりの生活のスタイルができつつある。まず朝風呂の習慣である。「おはら庄助さん」じゃないが、三日に一度は早朝まだ暗いうちにに起きて風呂を立てる。そして入浴後、その湯を洗濯槽に注ぎ込んで着ていたもの一切がっさいを抛り込む。
 今日
のような上天気だと至極、都合がいい。手早くテラスに干したあと、長良川の土手をたっぷり1時間かけて歩きまわり、そのあと両手に1.5キロ鉄亜鈴を握って我流の体操?をする。この土手歩きと我流の体操の間に、実にいろんな考えが湧く。
 
 わたしのアイデアの大半はこの長良川の土手の上で産まれたものである。ほかの時間には何も思いいつかない。
ただ惰性で過ごしている。だから、頭で考えるのではない、わたしの実感からすれば「足で考える」というのが正しい。
ひと時、テレビによく出ていた天然パーマの脳科学者が何とノタマオウと、大脳はほとんど関係しない。
 人間は「足で考える」動物である。シェイクスピアの『ハムレット』でも、主人公は歩きながら考えている。
   Words, words, words........
第二幕第二場の有名な場面、ハムレットは始終、歩き回っている。いっぽうノーテンキのポローニアスは突っ立ったままだ。「足で考え、手で想う」 いつからか、そんなふうに思い込むようになった。
 
 「手で想う」という場合、わたしがイメージするのは、広隆寺のミロクボサツ、正式には、弥勒菩薩半伽思惟像である。 あの頬っぺたにそっと触れる細い指先に、このホトケの深い想念が凝集したかのように見える。
 
 長良川の河原には白鳥が一羽、棲んでいる。スワンではなく、サギのような長い脚をもった鳥である。
シロトリという地名はこのオレサマがいるお蔭だぞ、といわんばかりに、いつも傍若無人、まさにカタワラに人無きがごとし、である。時々、流れの中に突っ立って魚を狙っているふうも見せるが、たいがいは河原のまんなかで石像のごとく動かない。ちょっと淋しそうでもある。その白鳥が、あろうことか、今朝は二羽、つがいになって翔んでいた。
翼を思い切り上下に大きく羽ばたかせて、上流へ、はるか白山連峰にむかって飛んでいった。
 
 さては、通い妻でもあったのか。あんちくしょう、なかなか隅におけないヤツである。
こちとらは、近く八十二歳の誕生日を迎えようとしている。今日も天気晴朗というところだ、呵々
              二〇一三年四月一日 エイプリルフールの日
 
越美文化研究所 水谷 慶 一

万川亭通信(428)~今こそ地霊の声を聴け!
 先日、刃物の町で有名な関市の喫茶店で、石の写真を見せるトークショウがあった。写真はすべて信仰の対象となっている石=イワクラ(磐座)のたぐいである。これを北海道から沖縄まで日本全国を尋ねあるいている人がいる。
 紀州熊野のゴトビキ岩、これは土地の言葉でヒキガエルのことだが、その他、ヘビの頭のかっこうをした岩、男根、女陰の陰陽石などなど、これらが天空にむかって突き出し、あるいは大地にうずくまるように根をすえる。
 
 これらをたんねんに撮影してまわっているのは、大学で地学を学んだあと、カメラマンになったS氏である。
北米インデアンのように長い髪をうしろで束ねた長身の男性で、わたしはいつか出会ったアメリカ南西部のプエブロ・インディアンの若者を思い浮かべた。
 彼は石の写真をとるばかりでなく、石によせる土地の人の話をいろいろ
聞き出して、それをまじえながら語る。その話に、ときおり観衆の中から感興の声があがる。

 なかでも、東日本
大震災の被害をうけた岩手や青森の話は人々を感動させたようだった。
 写真家のめぐった被災地のイワクラで、
地震で崩れたものはひとつも無かったという。土砂が流され、樹木が岩に倒れ込むように上にのしかかっても、岩はヒビ割れひとつせず、屹然とした「たたずまい」をくずさない。なにか、そこに「地霊」とでもいうようなモノの力が働いているごとく鎮座している。
 それは写真を見る人々に、崇高な、ある感情をおこさせたようだった。
 
 
 わたしは図らずも、もう三〇年以上も前に大和の巨大石造物を探査して歩きまわったときを思い出した。
あのときの興奮と感動が、遠い記憶の底からよみがえってきた。それは、以下のような語である。

 ーーー大和の三輪山のふもとに箸墓という古墳がある。卑弥呼の墓ともいわれる千七百年も前の前方後円墳である。その箸墓を中心に東西二百㌔にわたって点々と古代の祭祀遺跡と思われるイワクラが点在する。この東西線は、西は淡路島から東は伊勢湾におよび、その両端に「伊勢」がある。

 すなわち淡路の伊勢くるま神社であり、三重県松阪市の伊勢斎王宮である。東西線上の長谷寺や室生寺も、もともと古代信仰の聖地であった可能性が大きい。
 たとえば、長谷寺の本尊の巨大な観音像はその足下に大きなイワクラを踏まえている。そして共通して、太陽信仰が濃厚な伝説や信仰儀礼を残している。

 この謎の東西線は北緯34度32分にあたるが、わたしは、そこでこの東西線を「太陽の道」と呼び、半年ほどかけて丹念に踏査した。その結果を50分のテレビの特集番組につくってNHKから放送し、同時に  『知られざる古代~謎の北緯34度32分をゆく』 (1980年2月刊)という本を書いた。
 
 このような行動にわたしを駆り立てたのは、昭和30年代後半にはじまった土地ブームであった。みるまに山は崩され、谷は埋められ、道路が付けられて宅地造成が各地で進行していた。とくに南北の河内や大和の東部でそれは甚だしかった。
 
 わたしは、この二〇世紀終末期の現象を、古代人の眼で見なおす必要を痛切に感じた。
 かつて、われわれの祖先は、この大地を、この山河をどのように眺めたか? いかなる空間配置のもとに古里の自然を認識したか? それを、この猛烈な自然破壊の時代に復元してみようと思いたったのである。
 
 今やかつての土地バブルはもろくもハジケ、自然は一見、静けさを取り戻したかのように見えるが、こんどはもっと不気味なかたちで自然破壊が進行しつつあるように見える。
 あの東日本大震災はそのもっとも集中的な現象であり、そのことと今、若者たちが「モノいわぬ石」の声に耳を傾けようとすることとは無関係ではない。

 わたしは、かつて山野にイワクラを追い求めた当時の感懐をあらたにし、今の若い世代に、上記の拙著をぜひ読んでもらいたいと思った。古本屋にゆけば見つかるかも知れない。
                   
二〇一二年十一月二十日夜
水 谷 慶 一
501-5121岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007
越美文化研究所
万川亭通信(420)~世界のなかの白山(その一)
昨夜、招かれて白鳥町イトシロ(石徹白)の某所で白山信仰の話をした。一昨年の秋に約束しながら体調不良のため行くことができず、そのままだった責任をようやく果せたわけで、話の中身は以下のようなものである。
 
 今年は白山周辺が国立公園に指定されて何十周年になるとかで、石川、福井、岐阜県の各地で白山信仰に関するさまざまな催しが行われた。先日、十月二十日にも勝山市で「白山文化フォーラム」
があり、そこで講演者が話した中に、わたしが二十数年前、北朝鮮の白頭山をテレビ取材したおりに発表した、「東北アジアの白山信仰のひろがり」についての問題提起が、あらためて取り上げられた。
 
 講演をした前田速夫氏は文芸雑誌『新潮』の元編集者であり、わたしが上記の北朝鮮取材をしたあとで某雑誌に寄稿した『白頭山と白山信仰』をたんねんに読まれたことを、わたしもはじめて知ったまた前田氏のほうでも、まさか聴衆の一人にその本人がいるとは予想されず、たいへんに驚かれたようすであった。
 そんなことで、わたしは二十数年ぶりに、以前のわたしの白山信仰に関する構想のつづきを、今あらためて続けてみようという気になったのである。
 
 昨夜の講話で、わたしは話題の中心を次の二点にしぼった。一つは日本列島、朝鮮半島、そして中国大陸東北部をあわせた東北アジア一帯に共通してみられる「白山」信仰の存在であり、それらの根底に共通して太陽崇拝の観念がみられる事実である。そして第二点は、その「白山」信仰の拡大に大きく寄与したものとして、日本海(朝鮮では東海)を主な活躍の舞台とする海洋民の存在である。
 この二点から見るとき、日本の白山信仰をめぐる謎のかなりの部分が明らかになるのではないか、という予測を今のわたしはもっている。
 
 第一の、太陽崇拝の点は、白山の「シロ」が、たんなるホワイトという色の一種ではなく、それが太陽の光をあらわす言葉だということ、たとえば白昼ハクチュウはいちばん太陽の光がつよい真昼のことを指し、白光ビャッコウといえば、それは太陽の光線のことである。つまり英語のwhite とは違うのである。
 一例をだせば、朝鮮民族の代表的な衣装チマ・チョゴリは古来、白がもっぱら用いられた。白が垢じみやすく汚れやすいため不経済であるという理由で、朝鮮各時代の王朝はしばしば白の衣装を庶民が用いることを禁じたが、その禁令はいっこうに守られなかったし、近代、日本の植民地時代にあっても、朝鮮総督府は白のチマ・チョゴリをやめるよう、いくたびも指導したが結果は同様であった。
 かつて朝鮮の民衆は、みずからを「白衣民族」といい、それを民族の誇りとしていたのであり、それは太陽の光を身に付着させようとする古代的、呪術的な観念が作用していたとしか考えられないのである。
 
 そのシロへの格別な愛着が、崇拝する山岳の名に、太白山、小白山、あるいは白頭山の名称をつけさせ、そのことは現在の国境をこえて中国東北部にも及んである。(今も中国側では同じ山を長白山と呼ぶ)この、数多の白山崇拝は旧満州の地をこえて、遠くシベリヤにも及ぶ。そして、これらの地は、もともとはツングース Tungus と呼ばれるアジアの少数民族の故地であった。彼らは漢民族からは、センピ、ワイ、ハクなどと呼ばれ、それぞれ鮮卑、穢、狛と、蔑称の意味を多分にふくむ漢字で表記された。つまり人間並みに扱われなかったわけで、大陸中央部を占拠する漢民族から見て、はるか東方に棲む諸民族を一括した言葉が「東夷」すなわち東方の野蛮な異民族を意味する名称であった。その「東夷」諸族のもっともシンガリに位置するのが、わが日本、当時の「倭人」である。俗に通称される『魏志倭人伝』とは、正しくは「魏志・東夷伝・倭人の条」であって、そこに耶馬台国やその女王ヒミコ(卑弥呼)が登場する。この卑弥呼に使われた文字が含む蔑視の意味合いにも十分に注意されたい。
 しかし、この東夷すなわちツングースの諸民族民は、その後、アジア史のなかで大活躍をすることになるのだが、そのことは次回にまわそう。

                 二〇一二年十一月十一日
 
水 谷 慶 一
501-5121岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007
越美ぶんけん
万川亭通信(417)~老婆心ながら
 毎月2回やっている読書会では、ふた月に一回、テキストを離れて自由なテーマで話をし、かつ、いっしょに食事をすることにしている。

 この白山塾のきまりは、世話役のハタ女史の発案だが、なかなか、うまいアイデアで
ある。昨夜の白山塾では一休和尚の話をしろとせがまれて、「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という一休の詩を話題にした。
 
 婆子焼庵ーーー老婆が僧の住む庵を焼く、という禅の公案である。
 むかし、ある老婆が
ひとりの僧侶を庵に住まわせ毎度の食事を若い女に給仕させて、なにくれと世話をやいていた。

ある日、
若い女に言いふくめて、くだんの僧にいきなり抱きつかせ、「さあ、どうともして!」といわせた。僧は、「わしは冷えきった岩によりかかった枯れ木のようなもんだ」といって女を突き放した。

 この話を聞いた老婆は「ああ、この二十年間、こんな俗物の世話してまったく無駄なことだった!」と、僧を庵から
追い出し、その庵も焼いてしまった、とこういう話である。
 
 この挿話が語ろうとするものは何か? 若い女にいきなり抱きつかれて僧はどうするべきだったか? そして、老婆のとった行動は正しいか、正しくないか? さあ、その答を出せ、と質問者は修行者に迫っているのである。
 
 これが、禅の公案というものである。答えの出しようのない質問をぎりぎり問いつめ、相手を究極の立場に追い込むのである。
 
 近ごろの学生は、すべての問題にはかならず答があるものと思っている。それも、ただひとつの正解が、である。

 もう十年ほど前のことになるが、女子大の日本美術の講座で絵巻物の話をしていたおり、なぜ源氏物語絵巻の人物は
男も女も同じ顔をしているのか、同じ「引き目かぎ鼻」のまるい顔をしているのか、と質問を投げかけて、
みんなで考えてみてくれと云ったことがある。
 
 ものの5分もたたないうちに「質問!」と手をあげる学生がいて、 「先生、正解はなんですか?」とやられて、しばらくヤル気をなくした記憶がある。
 
 今にして思えば、早く正解を知って要領よく暗記することだと学生の大部分は、そのコトに慣らされてきたのである。マルペケ式のテストの連続でそうせしめた先生もわるいが、それを
なかば強制したお役人のほうが、もっと罪が深い。

 人生という「問い」に、たったひとつの正解なぞ、ありっこないのだ!!
 
 ちなみに一休の答は、次のようである。
  今夜 美人 もし我を約せば  枯楊 春 老いて 更に稊(ひこばえ)を生ぜん
 枯れたヤナギの木も むくむくと根っこから ワキ芽をだすことだろうて、というのである。
あなたなら、どう答えるだろうか?
                     二〇一二年十月十八日
 
水 谷 慶 一
501-5121岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007

越美文化研究所
タグ: 一休和尚
万川亭通信(380)~あの世からの電話
 コヨミの上では今日が夏至で、明日の夜が三日月です。先日、この研究所で月の暦にえらく熱心な人の話をきく機会がありました。

 われわれは今夜の月が三日月か満月か、ほとんど気にすることがありません。それほど気ぜわしく生きているということでしょう。それを半分あざ笑うように、亡妻がよく電話をかけてきて
  「外へ出て、ちょっとお月さんを見てご覧」
冷やかされたのを思い出します。

「いざよい」とか、「立ち待ち、居待ち、寝待ち」とか、月の出を待つ言葉
ほとんど死語になりかかっていますし、樋口一葉の『十三夜』という短篇もそのうち縁遠いユメの世界の話になってしまうでしょう。


 幼馴染の男女がなぜ過ぎ去った昔を語り合う気持にかられたのか、まったく理解不可能だからです。
 
 過日、小田急電車で前の座席に一列にすわっている八、九人をぼんやり眺めているうちに皆が皆、そろって耳にレシーバーをはめ、眼は携帯電話や電子機器の画面に見入っているのに、あらためて気づきました。
 
 誰ひとり
として身のまわりの外界に注意を向けている人はありません。ひとりひとりが単独の孤立した世界に身を沈めたままなのです。
今は山なか、今は浜、今に鉄橋わたるぞと 思うまもなくトンネルの 闇をくぐって広野原
 
 うろ覚えの歌詞でまちがっているかも知れませんが、もうそんな時代はとおの昔に過ぎ去ってしまったな、と感慨をひとしお深くしました。考えようによっては、これはニンゲンが生物的に「退化しつつある」ということにもなりましょう。

 危険なことは百も承知で、原発の再稼動をやすやすと決めてみたり、墜落をくりかえすヘリコプター
を住宅地のまん中に招きよせたり、すること、なすことに動物としての最低限、必要な合理性が欠如しています。
 
 月のかたちの変化に注意をむけること、それはもしかしたら、われわれが生物として外界に眼を向けるというもっとも原初的な健全性をとりもどすための、ひとつのキッカケになるのではないか?
 亡妻からの電話のことが、しきりに思い出されます。彼女の声の調子は、あきらかにわたしの「気ぜわしさ」をカラかっているようでしたから。
                                       二〇一二年六月二十一日
水 谷 慶 一
501-5121岐阜県郡上市白鳥町白鳥1007
越美文化研究所
| 1 | 2 | 最初 | next>>