魂の所在~今あること。そして未来へ

プロフィール
ぺくさんさん
どうも。
ちょっと年はいってますが、
年取ってますます元気です!!

ふるさとへUターンして、ようやく調子を取り戻しました。

都市生活で疲弊していた身体が、長良川と森の精霊によってリライブしています。

このかけがえのない地域を未来の子供達に残していくために、まだまだがんばる所存です。

流域のみなさんよろしく!!!



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映画『鳥の道を越えて』


8年ほど前に偶然東京で出会った同県人の今井君が初監督をした作品の記念上映会が今日、彼の故郷であり、作品の主な舞台でもある岐阜県東白川町であったので行って見た。

出会った当時から「地元に残る鳥猟文化を撮りたい」と言っていたので、この上映に至るまでは足かけ8年位は経過ているだろう。

彼とは縁があるのか、私がUターンした後も、郡上の美並を舞台にしたドキュメンタリーを基にした『日本山村会議』というワークショップが行われた縁で、彼の師匠である故姫田忠義氏とともに郡上でもお会いする機会もあった。

その縁で、今回の地元上映会以前に、この作品を自主上映しようと働きかけていて、自主上映会の前のスタッフの試写会として作品自体を見せていただいたので今回が初ではなかった。

前回そのスタッフで試写した時は、スクリーンも小さく画面の迫力が伝わりづらく、作品内容も決してエンターテーメントな内容ではないので、スタッフの感想としてはこれを郡上で自主上映して100名集めるのは結構大変ではないか?、何かイベントとセットでやればできないかという意見が出た。

作品の面白さを伝える側のスタッフからそのような意見が出されたので、これはなかなか難しいなと思い私から自主上映を秋以降に延期しようという提案をした。

丁度そのあと、今井君から映画館上映のオファーが来ているので自主上映を控えたいという連絡をうけたので、それなら丁度良かったと少し安心した。

作品は、東濃地域で昭和50年代まで続けられていた"カスミ網猟"という鳥猟の歴史を辿るドキュメンタリーで、彼のおじいさんから聞いた"鳥の道"を探すということから物語は始まっていく。

東濃地域では、昔からこの鳥猟が盛んで、渡り鳥が大陸から渡ってくる秋から冬にかけて多くの人たちが鳥を追いかけて全国各地を渡り歩いていたのだが、戦後のGHQ占領下の命令によりこの猟法が禁止されてからは密猟者扱いとなり、次第にこの生業を続ける人が姿を消していったのだ。

現在では、その鳥猟の経験者も80代となり、地元でもほとんどの人が実際の鳥猟を知らないという状態だ。

作品の中でも、戦後の"密猟狩り"の状況を伝えるインタビューもあり、それまでは当たり前に"カスミ網猟"に関わっていた人も次第に姿を消し、地域の生活様式から排除されていった。もちろんそれは、単に違法扱いになったからという理由だけでなく、そのような"仕事"をしなくても生活していける時代になったことも大きな要因となっている。


作品の中では、監督自身も地域文化と自然保護という対立概念で揺れており、決してその法律規制を批判する立場ではない。

作品の中で監督は、おじいちゃんが見たという"鳥の道"が僕にも見えたという地点でエンドロールとしている。

それは、観客にとっても決してすっきるする終わり方ではない。きっと突き放された感じをわざと残すことを期待しているような意図が見える。

この作品で表されていることは、この地域の人と文化のほんの一部を紬出して手繰り寄せて見せているに過ぎないのだ。

観客には"なぜ"という疑問がさまざま湧いてくるのだが、その部分は意図的に語られてはいないし、解説もされていない。

「こんな風に自分の足元にある一本の糸を手繰り寄せるだけで、日常では意識されてこなかった様々なことが露出してくるのだ」ということをこの作品は観客に突き付けているような気がする。

なぜ鳥を捕っていたのか?なぜ鳥を食べていたのか?なぜ鳥猟がこの地域に広がったのか?なぜそれが許されてきたのか?なぜそもそも猟をしていたのか?
なぜ急に衰退したのか?なぜ渡り鳥は飛んできたのか?なぜ渡り鳥は少なくなったのか?


疑問だらけの作品なのだが、その中で実際の渡り鳥の様子や鳥猟の方法だけは鮮明に記録されている。
「鳥屋場という山の鞍部にめがけて一斉に飛んでくる渡り鳥の羽音」を多くの猟師は鮮明に記憶している。そしてそれが忘れることができず鳥猟を続けるために全国各地を渡り歩いた人がいたことを。

合理性の理屈によって生きてきた現代人が、忘れ(させられ)てしまった人と自然とのかかわり方を、その豊かさを、唯一思い出させてくれる機会である自然との触れあい(鳥猟でなくても魚漁でも百姓でも)により、感覚的に理解できた世代がつい最近まで日本各地に沢山生きていて、そして今いなくなっている現在があるということをこの映画は私たちに示している。そんな風に感じた。

この映像がより多くの人の目に触れ、耳に触れ、ある感覚を呼び覚まし、平地人民を戦慄せしめんことを望む。



どんみすいっと!! 郡上ケーブルテレビ
今、郡上ケーブルテレビでは、新たに市民投稿番組として「美濃 はなしの里-2003年美並村の原風景」という記録映像の番組を放映しています。
(11時00分、17時00分、23時00分放映)

この記録番組は、合併前に美並村が委託制作した、美並村の歴史風土を現地採録した内容です。

委託された先は民族文化映像研究所であり、その所長である姫田忠義氏は、宮本常一の民俗学を継承したフィールドワーク中心の『映像民俗学』と言われています。

歴史文化の残る山深い里にカメラを持ち込んで、生活者の視点からその土地に秘められ残された文化風土を人々の語りを通して紡ぎ出してゆくという手法を厳格に守っています。

美並の旧地区集落ごとに守られている正月や祭礼の儀礼などを丹念に記録し、その地域に生きる人々の想いを伝えています。

翌年には、新たに粥川地区を中心とした高賀信仰の里、円空修行の地を記録した『粥川風土記』を制作し、キネマ旬報の文化映画部門で2位となっています。

その映像作成が縁で2008年には美並で『日本山村会議』という山村体験イベントも開催され都市部から多くの人々が粥川を訪れました。

こんな記録映像を地元のテレビで何度も放映されることの幸運さを郡上の人は知るべきでしょう。

そんな姫田氏は今年の夏、肺疾患のため84歳で亡くなりました。

氏の残した膨大な記録映像は、高度成長を機に日本が失ってしまった日本人の暮らしと心の基層を映し出すものとして、これからの日本の進むべき未来にとって大変な示唆にとんだ価値を持っていると言えるでしょう。


郡上おどりとその発祥について
郡上市在住の郷土史家である高橋教雄先生が今年出版した『歴史探訪 郡上踊り』
が岐阜新聞に紹介されています。

岐阜新聞ウェブ
以下抜粋----------------------

これまで1600年ごろとされていた発祥を「1700年代中ごろ」とする新説を展開。「考え得る最良の資料で導き出した答え。地域の財産である踊りの史実を見直すことは大切」と語る。

郡上おどりの発祥時期は諸説あり、髙橋さんも委員を務めた郡上八幡町史史料編纂(さん)委員会は1600年ごろと推定、1991年には同町で「郡上 おどり400年祭」が開かれた。だが髙橋さんは「推測に基づいた虚構では」という思いからその後も研究を続け、「郡上地域における盆踊りの萌芽(ほうが) は、宝暦・明和(1751~71)ごろ」と結論付けた。

 また、白山信仰の神事から派生した「バショウ」踊りと、江戸時代に6度も郡上地域へ巡行した伊勢神宮外宮の御鍬(おくわ)様を歓迎するための「懸 (かけ)」踊りを「郡上の盆踊りの源流」として紹介。白鳥おどりが本来の拝殿踊りを継承しているのに対し、郡上おどりは拝殿の規模が小さかったために橋で 踊り、それが路地へと広がっていったことなど、二つのおどりが異なっていった変遷にも触れている。

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これまでの定説である郡上踊り400年の歴史を信じている人には、多少ショックな内容であるこの新設は、歴史資料の検証をもとにした新たな設としてかなりの精度が認められる。

この説のもとになっている「御鍬祭り」の記述は、郡上地域の各所に残っていて、伊勢からもたらされたというこの祭りが、うたと踊りによって集落から集落へと引き継がれていったという歴史が、今日「かわさき」など風流おどりとして地域に継承されていったのではないだろうか。

そう考えると、郡上踊りのルーツは、伊勢からの風流文化(民衆の自己表現)と白山信仰に残る神おろしの呪術的祝祭儀礼、および念仏衆の懸けおどりの文化が習合して出来上がったと考えて間違いないのではないかと思う。

「御鍬祭り」が"ええじゃないか"のルーツ的な民衆の自発的自己表現の先駆けとなっていることを考えると、郡上おどりのルーツは定説となっている「殿様に奨励されて」という受動的なものではなく、まさに民衆の爆発的自己表現をその根幹に宿している芸能と言えるのではないだろうか。

郡上おどりが市井の人々に愛されつづけられる理由の本質はそんなところにあるのかもしれない。


 




志摩の特殊神事と円空仏をめぐるツアー

郡上市・志摩市友好交流提携協定2周年を記念

して下記のツアーを開催します。



このツアーは郡上市から伊勢志摩に向かうツアーですが、遠方の参加者については、羽島駅(東海道新幹線)で合流することができます。(ツアー料金は同額です)
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円空佛と天下の奇祭、お田植え神事と志摩半島の風光をめでる
超デラックス2日間の旅(略称 円空・志摩の旅)

旅行日時 平成25年06月23日(日)~24日(月)1泊2日  

行  先    三重県志摩市他

旅行代金 おひとり 28,000円 (あくまで概算 参加人数によりかわります)

宿泊場所 志摩市志摩町和具 パール・グルメ・イン竹正
                    TEL.0599-85-4147

募集人員: 35名(最少催行人員:20名) 申し込み順に定員に達したとき締め切ります。
 
旅行コース 
第1日 
郡上市白鳥町発(朝7時)→白鳥IC→高速大和→高速八幡→岐阜羽島IC→
JR岐阜羽島駅(9時半頃)→岐阜羽島IC→伊勢西IC→伊勢内宮・昼食→朝熊岳金剛証寺→二見おきたま神社→ホテルで講話と夕食、宿泊
 

第2日 

ホテル→片田三蔵寺→立神少林寺→伊雑(いざわ)宮(自由昼食)お田植え神事を見学→伊勢西IC→岐阜羽島IC→JR岐阜羽島→岐阜羽島IC→白鳥IC→白鳥帰着(21時頃か、道路事情による) 

 
宿泊施設  4名を基本に (ご夫婦をのぞく)
食事条件  朝食1回、昼食1回、夕食1回
全行路貸切バスを利用します 
カンタンな雨具、オペラグラス(双眼鏡)、帽子(風につよいもの)の持参をおすすめします
ご旅行条件(省略
協賛 白鳥観光協会 郡上市・志摩市交流協会 
実施 株式会社白鳥交通 代表取締役 尾藤安正  
        岐阜県郡上市白鳥町中津屋881-1                                               
 ※申し込みは、下記あてに願います。
  株式会社 白鳥交通  担当者 土屋周平ほか TEL 0575-82-5081
                                                                    FAX 0575-82-5635
                    
 [備考]: 新幹線の利用(下り) 東京07:33            岐阜羽島09:33
                (上り) 新大阪08:13    岐阜羽島09:11
石盤かち 干田野神明神社


長滝白山神社から石徹白を経て白山へ向かう旧登拝道の登り口にあたる、
干田野地域で"石盤かち"という祭事があることを知り始めて参加してみた。

もともとは、家の新築の際に行う、基礎工事のようなもので、家屋の礎石となる石を搗いて地面に安定させるための作業であったが、そのような作業も、近年大きく変わった建築様式により必要なくなり、旧来から地域で行われていたこの行事も行う機会がなくなってしまった。

そのような行事を懐かしむ人たちが、地域の行事としてこれを残そうと思い立ち、10数年前からこの干田野(ひたの)地域で秋の祭事として実施されている。

家を建てるという行為は、
現代においては個人や家族の行事であり、直接的には地域に関係のないものとなって久しいが、旧来山村では、新たに家を作るということは地域の行事であり、さまざまな形で地域の人々の援助がなければ成立しないものであった。

家を立て地域の人々に認めてもらい、その土地で生活していくためのセレモニーであるだけでなく、同時に家や土地を厄災から守り一族の安寧を願う厄除けの呪術でもあったのだろう。

集落のまとめ役や、大工の棟梁の木遣り歌に合わせ、家族や集落の人々とともに4メートルもある大きな柱木を立て綱を引き、合図とともに礎石を打ち搗くのだ。

勢いの良い掛け声とともに、境内の地面はドスンドスンと地響きに揺れる。

儀式というにはあまりに単純なものではあるが、その単純な行為を集団で行うことに大きな意味があるように思う。

響きわたる大地は生命を生み出す母性の象徴、それを暴れ揺るがす柱木は、男性のシンボルそのものである。

そこには有史以来人々が繰り返してきた、大地への祈りと豊穣の予祝がこめられているのだろう。

本来はたぶん、男衆だけ参加ができるものであったろうが、今はそんなこと言ってられないのと、若い女性なども楽しげに参加していた。













櫻堂薬師・瑞浪市
瑞浪市にある桜堂薬師に縁あって行ってきた。

東海環状を使えば、郡上からも一時間、遠く感じていた東濃地域も近くなったと感じた。

桜堂薬師は瑞桜山法明寺として弘仁3年(812)に嵯峨天皇の勅願寺として「三諦上人」がこの薬師を創建され、当時は比叡山・高野山と並んで日本三山のひとつと称され、最盛期には境内に七堂伽藍が建ち並び36坊が峰山山中に軒を連ねていたという。

しかし今はその三山の一つを思わせる面影は残っていない。
天台や真言の宗教都市に匹敵する信仰の地がこの地にあったかどうか知る由はないが、この地が白山信仰との結びつきが強い場所であったことは事実としてある。

縁起には創建以前のいわれが残っている。
「奈良時代(710年)元正天皇の皇女様がどうしても直らなかった悪い病気を、神のお告げで知ったこのお薬師に祈願されたところ直ちに良くなられ、喜んだ天皇は全国に薬師の信仰を奨励した」

養老6年に元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜ったのが白山を開山したといわれる越の大徳泰澄であるからだ。

時代が数年ずれているので別の事象であるかもしれないが、もし同一のことを指しているのであれば泰澄の由縁が
意図的に消されているという可能性もある。

1571年、信長の命令により焼き討ちされるまでは、24の坊が立ち並ぶ程の信仰を集めていたという。その後台風や地震により数度の復興を繰り返したという歴史を持っている。

その桜堂薬師は今年開基1200年を迎えるということで、当日はその記念式典であった。



当日は、喪失したままになっていた、大般若経三百巻の奉納とともに開基大法会がおこなわれ、稚児行列には多くの子供たち家族が集まりました。







神仏混交の形態をそのまま残るこの敷地の拝殿の東には、小さな神社がありました。
古来より、同じく天台の寺社として縁のあった、長滝白山神社の若宮宮司が公式に参拝し、長滝中宮寺と櫻堂薬師の由縁を説明してくださいました。



そのすぐ前には、戦後まで地歌舞伎や能舞台として利用されてきた舞台があり、床には回り舞台も仕組まれていた。



県重文(工芸品)の指定を受けている能楽面。
これは陶器で作ったレプリカであるという。
タグ: 桜堂薬師
縄文と弥生のグラデーション
今日の新聞に「日本人の縄文率」について中国の研究チームの成果が発表されと掲載されていた。

記事によると、
縄文時代の人々の遺伝情報が現代の日本の沖縄地方と本土の人々に受け継がれる割合は、それぞれ約60%と約30%と推定するという内容で、細胞核DNAの塩基配列の個人差を調べたデータベースを利用した分析結果であるという。

以前、日本の研究者からも、
ミトコンドリアDNA構成比法での縄文人率は沖縄96%、東北75%、飛騨69%、宮崎64%、北九州52%、美濃40%、首都圏29%
という結果が発表されている。

比率の問題はあるにせよ、明らかに縄文比率は中央政府(都市部)から離れた地域にその度合いを色濃くしている。

古い文化が鄙(辺境)の地に残りやすいというのは民俗学の定説とされているが、縄文という文化や思想も弥生という新たな生産様式や文化によって、都市部を中心に根付き次第に縄文的生活は辺境へ追いやられたと考えられる。

またこうも考えられる、
そもそも縄文の文化や生活は平地にはなじまず、森と川を集落の中心においており、弥生文化のように農耕地を中心にした平地の生活様式とは異なっていた。
しかし、平地文化は拡大していくいっぽうであったが、縄文的なコロニー文化を維持できる環境が時代とともに奥地に追いやられた。

そう考えると、美濃の濃尾平野と飛騨の山塊は、弥生的なものと縄文的なものがグラデーションをなして溶け込んでいる稀有な土地と考えられるかもしれない。


岐阜新聞WEB
http://www.gifu-np.co.jp/column/nouhi/nh20110408.shtml




白鳥と相撲
今年は岐阜清流国体の年であり、郡上では相撲競技が会場となっている。

郡上が相撲競技の会場となった経緯はわからないが、この地域と相撲の付き合いは長い。

郡上おどりに「郡上甚句」の一曲があるように、古くから相撲文化が根付いていて地域の芸能と余興に結びついていた。

 そもそも相撲とはスポーツではなく、神事であり、呪術であり、舞であった。
 今でも神社の隅に土俵があることが多いのはその名残りである。
 四股を踏むのは、大地の悪霊を踏み清め、枯れた活力を復活させるための儀式であり祈りであった。
 それが芸能化されたものが相撲であり、能であり、盆おどり(念仏踊り)であったようだ。

 記紀に伝わる天岩戸神話で、スサノオの荒事に嫌気をさし、岩戸隠れをしてしまうアマテラスを再びこの世界に呼び戻した、アメノウズメの裸踊りとタヂカラオの腕力は相撲(素舞)の原型だろう。

 もともとは神や天皇に奉納するための行事であり神様に見てもらうことが目的であったが、いつの頃からか視点が逆転し大衆が楽しむためのものへと昇華していった日本の芸能の一つである。

 白山信仰の拠点であるこの地には、これら芸能のすべてのルーツが今日まで継承されているということだ。

 相撲が地域行事として華々しかった頃のことを、今のお年よりは覚えている。

 毎年その春秋の祭りの季節になると相撲場が開催さて地域の力自慢が我こそはと集まってきたという。
 その中心地が白鳥町であった。
 白鳥には、福井や飛騨、東海からも力自慢が集まってきて、相撲部屋もあり、地方巡業も行われたと話す。

 今でもお年寄りたちの中には、当時名を馳せた力士であったり、有名な行事役であった人もご存命である。

 「あの頃は各地で相撲場が開催されて楽しかった。力士はもてたから。高度成長に入って、いつの間にか相撲が賭博対象になってきたころから序所に廃れていったのが残念だ」と語った。 

しかし今日、一方で青年会議所などは「わんぱく相撲」などを毎年開催し、地域の文化の継承に尽力している。

 今の時代、子供たちは大人社会に干渉されてケンカの一つもできにくい。
 相撲は人と人が直接ぶつかり合い、自分を伝え相手を受け止めるための数少ない機会である。

 昨今の荒ぶる大地を慰撫するために相撲(素舞)を奉納し、グローバリズムや金融経済とは別世界の力学を知るためには、地域の相撲文化の復活はとても大切なことであると思われる。



わんぱく相撲
http://www16.plala.or.jp/gujo/newpage9-4.html
修験僧円空「足跡から見えてきたもの」

郡上の郷土史家であり、円空研究家として数多くの著作を残す池田勇次さんが、この1月に「修験僧円空~足跡から見えてきたもの」を新たに著した。

戦後、円空仏の再発見とも言える評価が始まって五十年が経過し、当初はその造仏の美術的価値に注目が集中していたが、その研究が深まるとともに、円空の足跡やその思想そのものの歴史的解明が多くの研究者の心を捉えてきた。

池田勇次さんは、戦後地元の学校の教師を長く勤められてきたが、ある時郡上に多く残る円空仏に惹かれ始め、元来の研究熱心な性格から、円空仏を丹念に調べるフィールドワークを続けてきた。

もともと、史実として採用できる資料そのものも少なく、出生の地から僧として得度する30代までの経緯についてもこれまでさまざまな論議が続けられてきたが、池田先生は具体的な一つ一つの資料を精査しながら、その真実に迫る取り組みを積み重ねてきた。

その池田先生の円空研究も50年になろうとしている。
円空仏の調査から始まったその研究対象は、いつの間にか円空そのものの人生と思想にシフトしていた。

全国各地の霊地・霊山、寺院を訪ね歩き、極寒の窟で修行を続け彫仏を続ける修行僧円空は何を求め、何のために果てのない旅を続けたのかそれが池田先生のライフワークとなった。

池田先生は円空のたどった足跡を忠実に訪ね、時には岬に突き出た断崖絶壁を命がけで登り、その修行の痕跡を調べ、円空の修行がどんなものであったのかを窟の中で肌で感じることを体験しその思想を探求してきた。

『我山岳ニ居テ多年其地神ヲ供養スルノミ汝其地ニ至リ是ヲ見ヨ』と言ったと記録される「飛州志」にあるように、円空はそれぞれの地方の中で大切に守られてきた民衆信仰を尊び、世相に翻弄される人々の苦しみを信仰の力で救済しようとしていたとされています。

戦争により過酷な青年期を強いられ、戦後をこの世の無常として捉えた池田先生の心にはきっと円空の心情が自分の心に二重写しとなって表れていたのでしょう。

著作の最後は種田山頭火の句でしめられている。

どうしようもない私が歩いている

分け入っても分け入っても青い山

うどん供えて母よわたくしもいただきまする








聞き書きin石徹白
今週末の二日かけて石徹白で開催された聞き書きに参加してきました。

"聞き書き"とは、山里で昔ながらの普通の暮らしを続けてきた古老から直接その人生のお話を聞き、本人のお話をできる限り忠実に再現して記録として残そうという活動です。

当日は、石徹白地区公民館の主催事業として開催されましたが、企画と進行は岐阜市からIターンで地区へ移住した平野夫妻が担当され、去年に続き今年で二度目の取り組みとなっています。

講座には、東京の学生さんを含め東海圏から参加者が10数名が集まりました。

聞き書きの講座を進めるのは、中津川で山里文化研究所を開設して、その代表者として聞き書き活動を広げるために全国を奔走している清藤奈津子さんです。すでにさまざまな地域で聞き書きを開催してその記録を書籍として残されています。

初日の午前中に、活動の趣旨とお話を伺う姿勢や技術的なガイダンスを受け、午後から実践活動に入りました。

今回は4名の古老からお話を聞くということで、参加者3名のグループに分けてグループ単位の聞き書きとなりましたが、普段は一対一でお話を聞くことが多いようです。

私たちは70歳のおばあちゃんからお話を伺いましたが、70歳は聞き書きでは"若い人"の範囲に入るらしく、最高齢は90代の方でした。

お話を聞くのは大体2時間前後位で、それ以上長いと内容をまとめるのが大変になります。

私たちは、おばあちゃんが体験した石徹白での自然出産(自宅出産)のお話を中心に、昭和20年代~50年代の当時の暮らしぶりと地域の移り変わりの様子をうかがうことができました。

 石徹白で生まれ、今日までずっと地域の中で暮らしてきた女性でしたが、その頃まで続いてきた焼畑(なぎはた)の収穫や冬場の保存食のある暮らし、青年団活動の楽しみなど、厳しい時代や環境の中でも、地域の中で豊かな時間の流れがあり、人々の生き生きとした暮らしがあったことを改めて知ることができました。

二日目の午後までに文章に起こしてお話をまとめ、作品の講評を行いましたが、聞いたお話を十分にまとめきることができず、12月4日に森林文化アカデミーで開かれる発表会までに記録をまとめ作品とすることになりました。



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