魂の所在~今あること。そして未来へ

プロフィール
ぺくさんさん
どうも。
ちょっと年はいってますが、
年取ってますます元気です!!

ふるさとへUターンして、ようやく調子を取り戻しました。

都市生活で疲弊していた身体が、長良川と森の精霊によってリライブしています。

このかけがえのない地域を未来の子供達に残していくために、まだまだがんばる所存です。

流域のみなさんよろしく!!!



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S山食堂の想い出
もう45年位前の事か。

暮らしていた小さな町になぜか、総合病院と診療所が並ぶように立っていた。

そんなところに小さな食堂がができたのだ。

今思えばそれは、病院の患者を当て込んでの開業だったのだろう。

食堂を開業した家には同級生が暮らしていた。

開業と同時に、隣村から引っ越してきたのだ。

小学校の四年生だったろうか、近所ということもありすぐに仲良くなった。

ちなみに、我が家も小さなお菓子屋を営んでいた。5、6年前の事だ。

そう考えるとお菓子屋など始めたのはきっと、駄菓子を買いに来る子供よりも、病院の患者を当て込んでいたのだと今にして思う。

食堂など近所にはこの店以外になく、我が家では開店早々から上顧客となっていた。

うどんとそばと卵どんと親子丼。そんなメニューだったと思う。

我が家はもっぱら、うどんを注文した。

この店の素うどんがなんとも美味かった。

具はネギとナルトと小さなカシワ肉のみ。いたってシンプルだが、汁の味が絶品だった、関西系の薄い出し醤油に鰹節の出汁が絶妙に利いていた。

友達の家ということもあり、一人でも店に食べに行ったし、たまにはお母さんにご馳走してもらったこともある。

そうなのだ、この店の料理人は同級生の母親だつた。

同級生の母にしては少し齢が離れていたのを不思議には思ったが、深くは考えなかった。

我が家だけでも相当の頻度で利用したが、店に入ったてそんなに繁盛していたという記憶はない。もちろん店に行く時間帯は、もう4時過ぎだったから、病院の患者はいなかったのかもしれない。

高校が別になる前までは、よく遊びに行ったし、うどんも食べていたが、高校の頃は記憶がない。
その頃には、町にも活気が溢れ、商店街にもいろんなお店が立ち並んでいた。
喫茶店でナポリタンを食べるのがステイタスだった頃の話だ。

S山食堂の想い出はその頃からピタッと消え、地元を離れた以後30年程忘れていたが、ある時家族で思い出話をしていた時ふと話題になった。

「S山食堂のうどんメチャメチャ美味かった」と美食家の弟が話したからだ。

その時長い間忘れていた、食堂のうどんの味を不意に思い出した。

弟は子供の頃、この味に惹かれ、大人になったらうどん屋になると語っていた程だったので、そうとうに思い入れがあったようだ。

そんなS山君のお母さんが最近亡くなった。91歳だったという。

喪主であるS山君の弔辞で「45歳で調理師免許を取得しお店を始めた」ということを初めて知った。

その話を聞いて再びS山食堂の素うどんの味が鮮明によみがえった。

もう二度と味わうことのないという現実が、記憶の古層からよみがえらせたのかもしれない。

幼い日の想い出と素うどんの味は、もう取り戻すことのできない時間の重みを私に感じさせた。






 
即身仏という仏~祈りの連鎖について
昨日NHKの番組『歴史秘話ヒストリア』というかなり昔からやっている歴史モノ番組があるのをご存知でだろうか?

通常は武将とか偉人とかを、取り上げてその偉業を伝える内容なので、あまり興味を持ってみたことは無かったのですが、今回(第220回)のタイトルは
『オレは即身仏になる!~"ミイラ仏"の不思議な世界~』
でした。

タイトルだけ見たら、おふざけ番組だと思ってしまう内容ですが、これがとても素晴らしい番組内容でした。

即身仏という現象を過去から紐解き、なぜ即身仏になろうとしたのかということを歴史に照らして探ってゆく内容です。

即身仏は正確には即身成仏といわれ、古くから山岳修行の一環として、千日回峰行や木食行などの厳しい修行の末に到達する、最終的な解脱方法として、古くから真言密教や天台密教の修行で取り入れられた修法であったが、最終的には土中入定という修行に入りそのまま息絶えミイラになるという過酷なものだ。

そんな修行が近代法で出来なくなる明治期まで続けられてきたというのだ、もちろん現在も公式には伝えられていないが、そのような修行を選び入定する仏教者もいるだろう。

番組では、江戸時代の後半(18世紀)、ふとしたことから武士を殺めて逃走し、逃げ込んだ湯殿山で仏の道を歩み始め、自分の罪を償うべく、人々の苦しみを引き受ける千日の山籠もり、のちに即身仏となった僧・鉄門海の生涯をたどります。

番組の最後に当番組のナレーターである渡辺あゆみが湯殿山にある注連寺の鉄門海上人の即身仏に対面したとたん、彼女の目から大粒の涙が止めどなく流れ始め、本人自身がうろたえる場面が映し出された。

撮影クルーもこの自体を予期せず面食らった様子さえ感じられる。

彼女は敬虔なクリスチャンでしかも高学歴、しかも父親は牧師でもあった。そんな彼女の心を打ったのは、民衆のために生きた一人の修行者(宗教家)が、死んでもなお民衆を見守りたいという強い祈りの心で修行を続け、病で目的を成し遂げ得なかった本人に代わり、民衆が道者を即身成仏させ以来このお寺に奉納しずっと守り続けてきたという、相互の信仰心に、宗教の違いを越えた信仰の本質を見たからではないだろうか。

結果とても良い番組となった。再放送は下記に。

再放送平成27年 6月10日(水)14:05~14:48総合全国
 
苦悩と激痛の一週間
もう金曜日となった。

一週間前のこの日、会社に出勤し、さて仕事しようかと思い始めたころ、嫌な感じがよみがえる痛みが、腰と横腹付近に走った。

これは!!

そう、もはや疑いようもない。

前日から、違和感のあった腰の鈍痛の原因、もしかしてと思ってはいたのだが、深刻には考えていなかったことが悔やまれる。

"尿路結石"の症状だ。

初めてではないことだけが唯一の救いだ。

「尿路系に沈着する結晶の石のこと。もしくは、その石が詰まってしまうことにより起きる症状のこと。wikipedia」

初めてその痛みを経験したのが6年前。

山系のイベントに参加していた時の打ち上げで発症した。

酒を飲んでいたらドンドン腰が痛くなり、耐えられなくなってきたので、一人車に戻り車内で耐えた。

その痛みと言ったら尋常ではなく、声こそ何とか押し殺したが、誰もいないところだったら、大声で叫びたいくらいの痛みだ。

車内で、4時間程度苦痛と激闘し、少しだけ痛みが治まった頃、曲芸のような格好で車を運転して家まで帰ったことを昨日の事のように覚えている。

その後も一二度、軽い(と言っても結構痛いが)症状が発症していたので、経験者としては少し油断していた。

今回も、激痛になる前の事前診療などの対策は間に合わなかった。

結局、急いで家まで帰り、安静にしている他はないのだ。

もちろん。そのまま病院へ向かえば、その後の痛みとの対峙も軽い戦闘にすることもできたのだが、苦痛に歪む顔を晒し、病院で耐えるよりは、4時間一ラウンドを闘おうと決めたのだ。

その判断が甘かった。

もちろん夜までに激痛はいったん収縮し、その日は何とか寝ることもできたので、翌日医者に行き、鎮痛剤としてのモルヒネを処方してもらって、立て続けに1日4苞をのんだ。

痛みはそれとともに緩和し、もう大丈夫とタカをくくっていたら今度、その薬の副作用で腸がストライキをおこし、機能不全となり、全く便意がなくなった。

普段から内臓の強さを自負していたものには、脱糞ストライキ(ようは便秘ですが)がこれほど過酷なものとは想像だにしていなかった。

五日目になって、再び診療所で鎮痛剤と新たに下剤を処方してもらい、大量の下剤を飲んだが一向に便意らしい感じはない。腸が全く反応していない感じた。

これはもう緊急事態だと思い、内側からの攻撃がだめなら、出口からと大量の浣腸を買い込み、何年振りか覚えてはいないが、自分で注入してみた。

もちろん40ml一本で効くとは思っていないので、三四本立て続けに注入した。

そちらの嗜好があるわけではないので、楽しくはないが、とにかく出したいの一心だったが、結果は大腸には届かず、戦闘は不発に終わった。

結果的にほとんど眠れない状態に陥ったので、朝の三時に意を決して、ウォーキングを開始した。

もうこれは、強制的に大腸に刺激を与えるしかないと考えたからだ。

二時間歩いた。

歩くことは苦痛ではないが、祈るような気持ちであった。

家に戻り、できることはすべてやったという満足感で朝方少し横になっていたら結果はやってきた。

30分ほど横になっていたら、突然のゲリラ便意が起こり便所に駆け込んだ。

きわめて強固だった外壁が陥落し、汚水といえばこれほどの汚臭はあるかと思う程の、薬と未消化糞尿の混ざった汚物が1ℓほど排泄することができた。

これは、完全勝利のための勝鬨だった。

徐々に内臓機能が再開し、古錆びた機械が再び動き出した。

ここまで来るのに要した一週間は過酷だった。

まだ、石は排出された感じはしないのだが、痛みもほとんどないので、もう薬は一切飲まないで体調を戻すことに専念する。

齢をとるということは、こんな経験を様々繰り返すということでしょうね。





タグ: 尿路結石 便秘
天使と青い鳥
週末に娘が結婚した。

25歳というのは、適齢期という年齢だろうか。

私にとっては「えっもう!?」という感じだった。

娘が、高校生となり、大学にまで行き、社会人となって3年も働いたことだけでも驚きだった。

娘は、小学校から中学の一年までは殆んど学校には通えなかった。

その理由は今考えても良く分からない。

理由となりそうなことは沢山あったが、なぜ学校に行けないのかは本人にも分からずじまいだった。

しかし、何かのきっかけにより、突然と学校に通いだし猛勉強を始め、希望する高校に入り、希望する大学に入り 、希望する就職先に入ることが出来た。

私は、娘が小学校3年頃家庭を離れ、別居生活に入った。だから殆んど娘の日常を知らない。

休みの日とかに、娘達が通って遊びに来るという生活だった。

今思い返せば、親という資格など無いに等しいのだが、娘と縁が切れることだけは避けたかった。

それが結果的に良かったかどうかは今も分からないが、結婚式で「お父さんありがとう」などといわれると申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

本当は、結婚式自体も出る資格さえないのではとずっと考えていたのだ。

結婚することを知らされてからは、なんともいえないカウントダウンの日々が重苦しかった。


娘が郷里で産まれ、娘を抱いた妻を東京駅に迎えにいったときには、何重にも産着に包まれている娘が天使のように見えた。

この世には天使がいるのだと始めて知った。

天使は大切な人を守るために地上に降りてきたのだ。

大切な人は二人の大人。

ずっとその二人を守るためにそばを離れないで見守っていた。

そのことに気がついたのは、下の娘が高校で不登校になってからだ。

天使は二人を守るために、自分を犠牲にするのだ。


そしていつの間にか結婚式を迎えた。

天使だと思っていた娘は、いつの間にか青い鳥となり、羽が生えそろったと思ったら飛び立った。

もう、役目が終わったといわんばかりに、賛美歌がこだまする教会の中を飛び立っていった。

やはり天使だったのだ。

目の前には、見守られる人となった娘が幸せそうに笑っていた。

賛美歌が鳥の歌声のように聞こえ。








 
穴馬の伝承と文化


 最近地域のケーブルTVで市民投稿のビデオ(8ミリ)が放映された。
昭和55年に近所のお宮で上演された『為真の四季』というタイトルの素人芝居だった。

この地域でも昭和の時代までは、祭事の余興として旅役者の芝居とか、地区の氏子ののど自慢や素人芝居、地歌舞伎が境内で行われていた。
その当時は、地域の家族親族が集まっての宴会の中でにぎにぎしく行われていたことを思い出す。

そのビデオは、八ミリ映像をアナログテープに変換したモノをさらにデジタル変換したのもで、音声は限りなく劣悪で、映像も人の顔が判別できないほど劣化したものであったが、その映し出された芝居自体は極めて良質の"芸"で素人とは思えない出来栄えであった。

内容は、戦前の田舎の暮らしや季節の催事などを取り混ぜながらの無言劇で、春の田植え前の田んぼに牛を入れて耕す姿や、夏には、地元から出兵する兵士を送る壮行の催し、秋の人力脱穀機の稲刈りや、臼挽き、秋祭り、などが30分弱の舞台で面白おかしく見事に演じられていた。

その演劇の内容がとても素晴らしかったので、詳細を知りたくなり、ケーブルテレビで投稿者の情報を聞いて、お話を聞きに行ってきた。

その人は現在78歳になるHさんで、その芝居を創作し出演した本人であった。
聞いたところによると、神社境内の修復祝いでの催事として芝居を頼まれ、地域の人に呼びかけて3か月で練習して上演となったそうだ。

特に元となる台本があったわけでなく、今まで見てきた芝居の中から創作して芝居に構成したようだ。

当時の若い人たちは、今よりももっと芸能が身近で、自分たちが演じることにも慣れていたようで、いちいち演出家が所作を指導しなくても大体のイメージを伝えればその演技をすることができたと話した。それほど芝居慣れしていたのだろう。

話しは芝居のことに止まらず、H氏の出所来歴におよんだ。
もともとは、峠の向こうの福井県の穴馬(現大野市)の出身で、九頭竜ダムによって、全村集落移転が決定した昭和30年代、三十歳を過ぎたころこの地域の住民となり、移転して十数年後にその芝居を頼まれたというから、もともとそのような素質を地域の人に認められていたのだろう。

平成8年には、自分たちの一族が住み暮らした故郷の様子を未来に残す必要があると感じ、自らの記憶と当時の写真や地形図なども自筆で作成し、20ページ以上の冊子として作成している。その資料も見せていただいた。

そこには、失くしてしまった"ふるさと"の記憶を覚えている限り再現し後世の人に伝えたいという作者の魂といえる想いが込められている。

歴史伝承の資料としても大変貴重性の高い内容で、私たち世代が見失ってしまった"地と血の濃さ"のようなものをこれらの作品とHさん本人のありようから感じることができた。とても貴重な体験だった。
書評『鄙への想い』田中優子著


図書館で借りた本で書評を書くなど、著者には大変失礼なことと思うがご勘弁を。

図書館でパラパラとめくってみた印象は、白洲正子の著作かくれ里のイメージだった。

でも、テレビでよく見るコメンテーターの雰囲気と、現在の職務法政大学学長という肩書からするときっと、右脳的(左翼的とは思わないが)な表現なのだろうなという感じもしていたので、当たらずとも遠からずという感じだ。

鄙とは、都(みやこ)に対する周辺地域。ひなびた地域という意味です。

簡単に言うと、都と鄙の関係を、専門の江戸近世文化論から近代社会批判を提起する内容となっています。

近世まで日本にあった、あの世とのかかわりや、コミュニケーションの意味を、3.11のような現実問題から問うています。

近世と近代の決定的な違いは、表面化した西洋化やグローバリズムによる均質化の基となる、"国"のとらえ方であると言います。

江戸は270以上の藩からなる州政府であったので、人々にとっての"くに"は元来藩という自分が所属している具体的な"場所"であったということです。

それが近代というピリオドを迎える中で、西洋社会の作り上げた抽象概念として国家にすり替わったことが、それ以前の日本の自然観や社会観、生死観を大きくかえていったのです。

だがしかし、今日の問題はグローバリズムか、ローカリズムかという問題では解決できないとも書いています。

"鄙を生きる"大切な考え方として、大きなシステムに依存する仕組みから脱し、小さな仕組みやコミュニティーで生きる単位を生み出していくことだと言います。

では、都市での生き方はどうすればいいのか?著者は江戸がそうだったように都市で生み出されたもの、排出されたものを、都市の中で処理し、リサイクルし、海や大地に戻すという倫理や思想が必要だと言います。

福島原発の事故の事を引き合いに出すまでもなく、近代都市が生み出している人工都市幻想からの脱却をするためには、異質なものや生活リスクを外部に排除することのない仕組みが必要だと結びます。

分析や論法、到達した想いについては、とても合意できる内容でしたが、過去の人物の著作や事象の引用が多く、田中氏の独創的感性(左脳的)が十分発揮されていないところが残念と言えば残念でした。




なんだか忙しくなってきた。




ので、なかなかリラックスしてブログを書く時間が持てず、長いブランクが出来てしまいました。

普通の人はきっとそんな感じで書いているんだろうけど、私がひますぎたのだと今にして理解できました。

さてそんなこんなで、今日は書評(感想文か?)を一つ。

"神去なあなあ日常"というおよそ本のタイトルとしては編集者に嫌われそうな名前をそのまま付けたような小説だが、これが今巷でロードショー中の映画『WOOD JOB』の原作だという。

原作者の三浦しをん については、以前レンタルで借りた『まほろ駅前多田便利軒』が思いのほか秀作だったので、その原作者を知った程度だから、ファンというレベルでは決してない。

なので、今回の映画『WOOD JOB』もまだ見ていないし、さらにはその原作となっているという"神去なあなあ日常"も読んでいないのだ。

読んでもいない、書評を書くという離れ業をするわけではないが、たまたま図書館で返却されたばかり棚みたいなものが目の前にあり、その中に聞いたことのある名前のタイトルの小説があったから手に取ったただそれだけだ。

家に持って帰りページを開いて見るまではそれを原作と思い込み、これを読んでから映画を見るかどうか決めようとおもってたのだが当てが外れた。

そのタイトルは似ているが"神去なあなあ夜話"という別物だった。

いやよく見ずともだいたい気が付いていたのだが、日常よりも夜話のほうが好きなたちなのでそのまま借りたのだ。

だって一緒に借りた本は三角 寛の"山窩奇談"だもの、だいたいがそっちだ。

だから、この本が前篇(日常)の後編的なものなのか、日常に対する非日常的なものなのか比較すらできない。


読み進めていくと、今っぽい小説(失礼)の雰囲気であることがすぐわかり、漫画のように読み進めることができた(決して批判的ではない)


しかし、一緒に借りた"サンカ本"は、小説としたらルポルタージュ奇談の類なのでそれなりにリアリティーがある。


そんな本を一緒に読むのも間違いと誰かに指摘されそうだが、それなりに面白い。

こんなに時代もジャンルも違うものなのにどこか共通性があるのだ。

それは、乱暴に非日常性といってしまってもかまわない。

近代社会や都市社会が排除してきた、マージナルな部分、境界の向こうというか、あの世というか、非定住という世界が小説の舞台になっているからだ。
(正確には山窩奇談は小説としては書かれていない、あくまでもジャーナリスティックな文体なのだがあまりにも物語的な要素が強いのだ)

昔、三重の山奥の村にいた竜神が去った神去村には、その奥山に熊野修験の大峰山系が続き、そこはこの世とあの世が連続している世界である。

WOOD JOBという今流行りの自然にやさしいお仕事は、実は大自然という荒ぶる神々を相手にするヤマト武尊のような修行に近い。

きっと映画でもそんな、リアリティーを背景として見せながら、今の若者達にも魅力的な映像に仕上げているのだろう。

実はまだ最後まで読んでいないので、どう考えても書評はかけないのだ。


















ともし火が消える前に、
1930年代は日本が関東大震災から世界と日本の大恐慌を契機に、資源争奪の世界戦争へ突入していく時代の過渡期であった。

その頃生まれた人々は、もはや80を超えた齢となっている。

それ以前の発展し豊かになっていく日本の姿を知らず、気が付いた頃には、軍国日本の少国民として育てられていた。

都市部においてさえそのような状況の中、周辺の山間地においては生存の苛烈な状況が生まれていたことは想像に難くない。

大変な辛苦な生活と悲劇を背負わされてきた世代である。

そんな世代が経験してきたこの国の変化はどんなものであったろうか?

ほぼ自力で、生活に必要な物資や食べ物を調達し少ない食べ物を分け合いながら、戦禍を何とか生き延びて戦後を迎え、焼け跡の戦後から出発し、家族と地域の生活を再建するために働きに働いた。

そして、高度成長による急激な生活の変化、大規模公共事業や工業化によって引き起こされる自然環境の破壊や公害、山村ではその過程でそれまで続いてきた地域コミュニティの絆が崩れ、都市型の個人主義が若者達を魅了していった。

その後に待っていたバブルの崩壊、日本経済の失速と同時に起こった阪神淡路大震災とオウムサリン事件。

21世紀を迎え、相次ぐ世界的混乱、局地戦争とテロ。そして3.11の想定外の地震と津波と原発放射能汚染。


生まれた頃の貧困と混乱と今の世の中を比較すること自体が無意味かもしれないが、この世代の人たちはどう思っているのだろうか?

そんな経験をしてきた世代の多くが、今私たちの目の前から静かに去ろうとしている。

私たちは彼らの話を大切に聞いてきただろうか?
彼らの想いを十分に受け止めただろうか?
心の豊かさを未来の子供たちに残せるのだろうか?

これから迎えるであろう、大変な時代の変化に対して戸惑う時「そういえばおじいちゃんがこんなこと言っていたな」と思い出す時がきっと来るだろう。

もはや残された時間はわずかだが、彼らの話をより多く心にとめたいと思う。




ムーミンという哲学
最近、なんとか細胞を発見したとして、日本人の若い女性研究者(リケジョというのか)が大変注目されているニュースを何度も見た。

その映像の中で、ピンク色の壁の研究室の中に置いてある冷蔵庫だか研究機材の扉にムーミンのシールが貼ってあり、おばあちゃん譲りの割烹着を身に着けた理科系らしからぬその姿が映し出されていた。

その映像を何度か見て私が気になったのは「なぜムーミンか?」ということだった。

アニメムーミン第一世代としては、それは世代違いの感があるからだ。

とても気になった私は、wikipediaでさっそく調べてみたら、アニメの放映は近年まで何回かあったことが分かった。

私たちが見ていたのは、
1969年10月 - 1970年12月に放送されたムーミン第一作と、
1972年1月 - 1972年12月に放送されたムーミン第二作というものだった。
ともにカルピスまんが劇場という枠で放送されており、前者を(旧)ムーミン後者を(新)ムーミンと呼び分けられているそうだ。

その後、テレビ東京により、
「楽しいムーミン一家」が1990年4月-1991年10月まで78話、
「楽しいムーミン一家 冒険一家」が1991年4月-1992年3月まで第26話、が放映されている。 この他劇場版などもあるようだ。

ということは、
リケジョ氏は90年代の作品を見た世代と考えられる。
もちろん前作ビデオもあり、再放送も何度もあるので、70年代作品を見た可能性も否定できない。
もちろん、原作者であるトーベ・ヤンソン氏の作品を読んだのかもしれない。

私はあいにく新旧ムーミンしか見ていない。

それ以降のムーミンアニメがどのような内容であったかは知らないし、原作も読んでいないが、久しぶりに思い出したムーミンアニメについて少し思うことを書く。


なぜかその頃(10歳前後か)自分の中で、どのアニメが一番好きなのかを子供ながら真面目に考えていた。

日本製のカラーアニメがテレビ番組で沢山作られていた頃、魅力的な作品が沢山あったにも関わらず、私が最も素晴らしいと思ったのがムーミンだった。

しかし、まだ子供だったせいでなぜその作品が素晴らしいのかについてロジカルに語る言葉を持ちあわせておらず、ただ"一番好き"と思うだけだった。

大人になってたまに思い出すのは、スナフキンのつま弾く哀愁のギターフレーズぐらいだったのだが、今改めてムーミン作品を見てみると、その作品の質の高さに驚かされた。

今のアニメに見られるような、子供に媚びた姿勢はみじんも感じられない、ある意味キャラクター一人一人が生々しい個性を持っていて、非妥協に自分らしさを追及している。

といってもそこは、先進国でも都会でもない、地球の果てのようなムーミン谷の田舎村、人として現されているのはごく僅かで村民はほぼ動物の姿だ。いや動物でさえもないニョロニョロのような生物さえ村民と位置付けられている。

ムーミンは当然主人公であるのだが、ヒーローとなる才能とはかけ離れた、意気地のないそれでいて強がるフツーの子供なのだ。

子供たちは(特にムーミンとミーは)よくケンカをするが、そのケンカがイカしている。散々相手を罵倒しておいて、別れ際には"さよなら"ときちんと挨拶をして別れる。

子供の頃にはミーを単なるいじわるな女の子と思っていたが、よく見るととても友達思いの優しい子であったりする。(これが女の子からもっとも共感を得られる存在だ)

ノンノンは都会から舞い戻ったマドンナ。だれもがその優しさに惹かれるが、ノンノンの夢はムーミンのお嫁さんになること。

その兄のスノークは、まさに都会かぶれのインテリ。西洋の都市の価値観から抜け切れない存在。妹を愛する優しき兄ではあるが、村民を見下しているところもある。

ムーミンのパパとママは理想的な家庭の象徴としてある。ムーミンの成長をある時は厳しくある時はやさしく見守る。
ママは毎日家事に忙しいが、パパは小説家と言っているが、まだ一枚も原稿が書けないでいる。

村民からは旅人として位置づけられているスナフキンは、この物語を見守るストーリーテラーのような存在。 「故郷は」とムーミンに問われたら「しいて言うならこの地球かな」と答える。 ムーミン谷で起こる様々な現象を、その本質的な問題として言葉に変える。予言者的な存在でもある。

「ムダじゃムダじゃ」が口癖のジャコウねずみさんは、毎日ハンモックに揺られ読書三昧。哲学者サルトルのような偏屈者。

多くの挿入歌は、井上ひさし氏が作詞作曲している。

バックミュージックは子供向けにしてはやたらシリアスで、緊張感を高める。

村境にある「おさびし山」は、中世コミュニティの結界のような峠の辻、この境から良い事(者)と悪い事(者)が村に入ってくる。

ある時は、鉄道を引くことをスノークが村に提案し、無理やり鉄道建設を進めたが、パパたちは鉄道によってもたらされる厄災を危惧して、列車の立ち入りを阻止しようとする。

ある時は、スノークの旧友がフランスからやってきて、ムーミンはノンノンがその男に惹かれていると勘違いし決闘を申し込む。

ムーミンという子供の目を通した、平和な世界(日常)が様々に表れる事件や混乱を経験しながら、村の人々とともに一喜一憂しながら日々が重ねられていく。

子供が大人になってゆくときに経験しなくてはならない、くやしさや恐れ、混乱やかなしみを経過し、勇気をもってそれらと立ち向かい、そして村で生きてゆく喜びを描いていたのだと、この年になってやっと説明することができるような気がする。





人生60年~ケツカッチン的生き方
正月早々堅い話で申し訳ない。

人は自分の人生の長さを自分で決められない。

それは当たり前の事である。

しかし、人生設計(何をもって人生というかは問わない)を考えるうえでは、ゴールの時期を定めなくてはならない。

信長は人生50年と詠ったそうだが、一般的には60歳を人生サイクル終点と考えることが常識的であった。
だから60を迎えたころには赤いチャンチャンコを着せてもらい「ご苦労様」というねぎらいの言葉を受けて現役を退くのだ。

しかし、現代日本社会ではそのような古い文化などどこ吹く風とばかりに、60を過ぎても社会の権威・権力の座に居座り、その力を手放す気などさらさらないかのような老人が幅を利かせている。

彼らは"ふがいない奴ら若者には任せておけない"とか"譲るべき相手がいない"などといけシャーシャーとのたまわる。

その結果、彼らが若かったころの古い社会体質がそのまま温存され、現実生活との齟齬が様々な場面で滲み出してきている。

経済、環境、年金福祉、国際社会すべての領域でこのような思考停止が容認され、目の前の現実があたかも幻想だと言わんばかりに開き直りを続けている。

この社会システムの停滞や循環の破壊が生み出している社会的損失は結果未来の子供たちがすべて背負うことになる。(もちろん子供たちが生き残れる未来があればという前提だが)

私はこの老人(あえて使用しますが)世代を攻撃しているのではない。

"人生"の意味を知ってもらいたいのだ。

所詮この世界は浮世である。 

人々の欲望が必ずしも理想的な社会をもたらしてくれないのは歴史が示している。

だからこそ、自分の意志だけではどうにもならない浮世を卒業し、遁世(とんせ)してもらいたいのだ。

ストレートに言うなら次世代にこの世を任せてもらいたい。

そのためには、60もしくは65ぐらいを人生のゴールと定め、この世でやるべきことをきちんとやったうえで、隠居してもらいたい。

それが大人のありかただと思うのだ。

翻って考えると、私もゴールまで10年くらいしかない。

この年齢の10年などという時間はあっという間の出来事に過ぎないことは承知している。

そうしたら、もはや迷っている時間などない。やるべきことをやるだけだ。


まさに今でしょ!!!





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