魂の所在~今あること。そして未来へ

プロフィール
ぺくさんさん
どうも。
ちょっと年はいってますが、
年取ってますます元気です!!

ふるさとへUターンして、ようやく調子を取り戻しました。

都市生活で疲弊していた身体が、長良川と森の精霊によってリライブしています。

このかけがえのない地域を未来の子供達に残していくために、まだまだがんばる所存です。

流域のみなさんよろしく!!!



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奈良での志賀さんの講演会

志賀勝さんをお招きして
「万葉集」などを中心に月信仰を考える講演会です。
古の人々の月夜に対する想いを感じながら
奈良の町屋「月眠」で楽しいひとときをお過ごしください。

月暦のお話 
「月信仰の聖地を語る」
お話  
志賀勝(月と太陽の暦制作室) 
    1949年東京生まれ。
    日本読書新聞編集長を経て著述業。
    1997年から「月と太陽の暦制作室」を開いて、
    月暦を毎年発行、月と季節の復権と発見に努めている。
    著書「魔女の素顔」「病気は怖くない」
      「月的生活」「月曼陀羅」など
    ↓ 「月と太陽の暦制作室」のホームページ
    http://tsukigoyomi.jp/index.html

日時  
2016年8月10日(水曜日) 18時~
場所  
月眠(ギャラリーと学びの町屋)
奈良市高畑町1042番地
0742-22-7180
↓ 「月眠」のホームページ
https://www.facebook.com/getsumin
参加費
1000円 

問合せ
主催 men at work
090-8752-3307
menat@nifty.com
担当 関山
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http://menat.exblog.jp/25852277/
たかす開拓記念館オープン


郡上市の高鷲町の町民センターに、新たに「たかす開拓記念館」が設置され、
間もなくオーブンとなります。

地域の開拓の歴史に特化した記念館というのも珍しいと思うのですが、
その内容の濃さと、展示方法の斬新さが際立っています。

ただ単に、歴史資料を展示するという教育的志向から、"見せて、感じさせて、考えさせる"展示という新たな手法が工夫されています。

また、資料や文字の情報量たっぷりという従来型から、情報量を制限し表現を厳選した表現がスタイリッシュな感じになっています。

展示されている内容は、近代史の中であまりクローズアップされることのなかった開拓(移民)史なので、戦争の時代の極めて重く苦しい内容であるわけですが、その内容を薄めることなく、史実を史実としてストレートに表現し、当事者の声なども採録しリアリティーを高めています。

ある意味、戦争資料館と言ってもよい内容であり、親や祖父母の世代が経てきた厳しい社会の現実を知らない、私たち世代や子供たちの世代には極めて意義深い内容です。

「"なにくそ、おかげさま"の精神で乗り越えてきた、地域の先人たちの苦難を知り、私たちはこの時代に対面して生きていかなければならない」そんな思いを新たにさせる機会として、このような施設が地域にできたことを感謝したい。


注)オープン日は4月24日ですが、当日は記念行事のため、一般の公開は午後3時以降となりますのでご注意ください。

土日祭日は通常休館日となりますが、ゴールデンウィーク中は休まず開館されているので、平日休んで見に行けない人は、この期間にぜひ。




映画『FOUJITA』 その評価
私は大の小栗監督のファンであるため、冷静な映画批評は書けないと、前もって断ったうえでの話だが、

映画『FOUJITA』 は素晴らしい出来である。

この映画を見た多くの人は、よく解らない。抽象的すぎる。フジタの人となりが表現されていない。

ごもっともな感想である。

それらの意見はそれぞれの主体である人の映画の見方なので否定はできない。

だが、その人に対し「もう一度見るとこの映画の素晴らしさが見えてくる」とだけ伝えたい。

小栗映画を見ている(といってもそんなにたくさん作品があるわけではない)私としては、この監督が、単純に日本人にも忘れられているような画家の生涯を描いてその復権を試みるというような作品を作るわけはないと知っているからである。

しかし、映画を見る側は、藤田嗣治という、フランスで高く評価され、愛されたという日本人画家の生涯を知りたいと思うから、どうしてもその人生の顛末に引きずられてしまい、挙句の果てには、本人の想いは、本人にしかわからないというように突き放してしまう描き方に消化不良を起こしてしまうのだろう。

小栗監督の映画は
①静止画のような画像としての画面であり、
②その画面の中にあらわれる、人やモノの演劇的構成であり、
③そして、時間を越えた伝承やファンタジー
で構成されている。

絵画のような風景や描写を画面に表し、現実の時間を映画の時間に変えてしまう手法。
説明的な会話をほとんどそぎ落とし、画面に表す演劇的構成の補完的要素として言葉を使う手法。
そして、現実世界から(この世ではない)深層世界に見るものを引きずり込むための説話が利用される手法である。

初めて小栗映画を見る人は、この手法の斬新さに戸惑い、抽象性にいらだつのだろうが、映画を見たことさえ忘れた頃、映画のイメージのシーンが突然とよみがえるような経験をする。小栗映画はそんな装置なのだ。

もっと不真面目に小栗映画の三要素を語れば、
①にモノノケ
②に能的要素
③に岸部一徳

これは少し茶化し過ぎだが、彼の映画には無くてはならない要素である。

ある意味では、小栗監督の作品は何を見ても同じである。
映画そのもののテーマも同じであるといっても過言ではない。

そこに、彼の映画作品の普遍性があるのだといえるだろう。

この映画を何映画と問えば、それは明らかに戦争映画だと思う。正確には戦争の時代の映画ということだ。

フジタの半生の中にあらわれる、第一次大戦後のフランスから第二次大戦に向かう日本の状況を、フジタという人間を通して観客は追体験する。

それは、単に戦争の悲劇や悲惨さを"見る"ということではなく、人々がその時どう思いどう生きていたかを表現しているのだと思う。

主人公フジタを含む、全ての登場人物は言わば時代を映す素材の一部ようなもので、呟きのように発せられる言葉によってそれが人であることを認識させている。

主演のオダギリジョーにしても、中谷美紀にしても、他の俳優にしても、その俳優の持つ演技とか個性などというものを極力表面化させないよう心掛けられている。

映画の中で召集令状を受けた先生役の加瀬亮が話す民話の一人語りや、フジタが疎開先の山の中で出会う老婆との対話などが、逆説的に物語のリアリティーを深めている。


この映画の公開の前日に、パリのテロが起こった。
そのことを受けて、「パリで、とても不幸なことが起きました。この映画のキャッチコピーは『パリが愛した日本人、あなたはフジタを知っていますか?』となっています。 1920年代と40年代の日本とパリを、フジタを通して描いた作品です。20年代から数えますと、ほぼ100年近く時代がたっていますけれど、欧州はどう いう社会なのか、あるいはアジアは欧州と違ってどうなのか…この封切りの初日に、パリのテロを受けて、あらためて私は考えました。もしかしたら、この 『FOUJITA-フジタ-』で描いている世界も、14年から振り返って遠い昔のことではないんだと。今に結び付く問題が、この映画の中にもあるんだろう な、ということをあらためて今朝、しみじみと考えました」と語っている。

小栗監督にとって映画とは、世界の今、日本の今をあぶりだすための舞台装置なのだと思う。







タグ: 小栗康平 FOUJITA
S山食堂の想い出
もう45年位前の事か。

暮らしていた小さな町になぜか、総合病院と診療所が並ぶように立っていた。

そんなところに小さな食堂がができたのだ。

今思えばそれは、病院の患者を当て込んでの開業だったのだろう。

食堂を開業した家には同級生が暮らしていた。

開業と同時に、隣村から引っ越してきたのだ。

小学校の四年生だったろうか、近所ということもありすぐに仲良くなった。

ちなみに、我が家も小さなお菓子屋を営んでいた。5、6年前の事だ。

そう考えるとお菓子屋など始めたのはきっと、駄菓子を買いに来る子供よりも、病院の患者を当て込んでいたのだと今にして思う。

食堂など近所にはこの店以外になく、我が家では開店早々から上顧客となっていた。

うどんとそばと卵どんと親子丼。そんなメニューだったと思う。

我が家はもっぱら、うどんを注文した。

この店の素うどんがなんとも美味かった。

具はネギとナルトと小さなカシワ肉のみ。いたってシンプルだが、汁の味が絶品だった、関西系の薄い出し醤油に鰹節の出汁が絶妙に利いていた。

友達の家ということもあり、一人でも店に食べに行ったし、たまにはお母さんにご馳走してもらったこともある。

そうなのだ、この店の料理人は同級生の母親だつた。

同級生の母にしては少し齢が離れていたのを不思議には思ったが、深くは考えなかった。

我が家だけでも相当の頻度で利用したが、店に入ったてそんなに繁盛していたという記憶はない。もちろん店に行く時間帯は、もう4時過ぎだったから、病院の患者はいなかったのかもしれない。

高校が別になる前までは、よく遊びに行ったし、うどんも食べていたが、高校の頃は記憶がない。
その頃には、町にも活気が溢れ、商店街にもいろんなお店が立ち並んでいた。
喫茶店でナポリタンを食べるのがステイタスだった頃の話だ。

S山食堂の想い出はその頃からピタッと消え、地元を離れた以後30年程忘れていたが、ある時家族で思い出話をしていた時ふと話題になった。

「S山食堂のうどんメチャメチャ美味かった」と美食家の弟が話したからだ。

その時長い間忘れていた、食堂のうどんの味を不意に思い出した。

弟は子供の頃、この味に惹かれ、大人になったらうどん屋になると語っていた程だったので、そうとうに思い入れがあったようだ。

そんなS山君のお母さんが最近亡くなった。91歳だったという。

喪主であるS山君の弔辞で「45歳で調理師免許を取得しお店を始めた」ということを初めて知った。

その話を聞いて再びS山食堂の素うどんの味が鮮明によみがえった。

もう二度と味わうことのないという現実が、記憶の古層からよみがえらせたのかもしれない。

幼い日の想い出と素うどんの味は、もう取り戻すことのできない時間の重みを私に感じさせた。






 
即身仏という仏~祈りの連鎖について
昨日NHKの番組『歴史秘話ヒストリア』というかなり昔からやっている歴史モノ番組があるのをご存知でだろうか?

通常は武将とか偉人とかを、取り上げてその偉業を伝える内容なので、あまり興味を持ってみたことは無かったのですが、今回(第220回)のタイトルは
『オレは即身仏になる!~"ミイラ仏"の不思議な世界~』
でした。

タイトルだけ見たら、おふざけ番組だと思ってしまう内容ですが、これがとても素晴らしい番組内容でした。

即身仏という現象を過去から紐解き、なぜ即身仏になろうとしたのかということを歴史に照らして探ってゆく内容です。

即身仏は正確には即身成仏といわれ、古くから山岳修行の一環として、千日回峰行や木食行などの厳しい修行の末に到達する、最終的な解脱方法として、古くから真言密教や天台密教の修行で取り入れられた修法であったが、最終的には土中入定という修行に入りそのまま息絶えミイラになるという過酷なものだ。

そんな修行が近代法で出来なくなる明治期まで続けられてきたというのだ、もちろん現在も公式には伝えられていないが、そのような修行を選び入定する仏教者もいるだろう。

番組では、江戸時代の後半(18世紀)、ふとしたことから武士を殺めて逃走し、逃げ込んだ湯殿山で仏の道を歩み始め、自分の罪を償うべく、人々の苦しみを引き受ける千日の山籠もり、のちに即身仏となった僧・鉄門海の生涯をたどります。

番組の最後に当番組のナレーターである渡辺あゆみが湯殿山にある注連寺の鉄門海上人の即身仏に対面したとたん、彼女の目から大粒の涙が止めどなく流れ始め、本人自身がうろたえる場面が映し出された。

撮影クルーもこの自体を予期せず面食らった様子さえ感じられる。

彼女は敬虔なクリスチャンでしかも高学歴、しかも父親は牧師でもあった。そんな彼女の心を打ったのは、民衆のために生きた一人の修行者(宗教家)が、死んでもなお民衆を見守りたいという強い祈りの心で修行を続け、病で目的を成し遂げ得なかった本人に代わり、民衆が道者を即身成仏させ以来このお寺に奉納しずっと守り続けてきたという、相互の信仰心に、宗教の違いを越えた信仰の本質を見たからではないだろうか。

結果とても良い番組となった。再放送は下記に。

再放送平成27年 6月10日(水)14:05~14:48総合全国
 
小さな歌集
たらった!たんかの作者であるきょうこさんから、歌集をいただいた。

昨日、八幡で開催されていた「糸CAFEキネマ」の会場で「糸CAFEマルシェ」として展示販売されていたかめっこ農園さんの「キッチンレタス」を買ったら、恥ずかしそうに渡してくれたのがこの短歌集。

きょうこさんの手書きで短歌に可愛いイラストが添えられている。

私がこの「たらった!たんか」のファンであることをコメントで伝えていたので、渡してくれたのだと思う。

きょうこさんの歌を読むと、小さな季節の変化と家族の暮らしの様子が、自然の空気感とともに感じられて不思議だ。

いつか小さな絵本の様にして出してほしいと期待している。












苦悩と激痛の一週間
もう金曜日となった。

一週間前のこの日、会社に出勤し、さて仕事しようかと思い始めたころ、嫌な感じがよみがえる痛みが、腰と横腹付近に走った。

これは!!

そう、もはや疑いようもない。

前日から、違和感のあった腰の鈍痛の原因、もしかしてと思ってはいたのだが、深刻には考えていなかったことが悔やまれる。

"尿路結石"の症状だ。

初めてではないことだけが唯一の救いだ。

「尿路系に沈着する結晶の石のこと。もしくは、その石が詰まってしまうことにより起きる症状のこと。wikipedia」

初めてその痛みを経験したのが6年前。

山系のイベントに参加していた時の打ち上げで発症した。

酒を飲んでいたらドンドン腰が痛くなり、耐えられなくなってきたので、一人車に戻り車内で耐えた。

その痛みと言ったら尋常ではなく、声こそ何とか押し殺したが、誰もいないところだったら、大声で叫びたいくらいの痛みだ。

車内で、4時間程度苦痛と激闘し、少しだけ痛みが治まった頃、曲芸のような格好で車を運転して家まで帰ったことを昨日の事のように覚えている。

その後も一二度、軽い(と言っても結構痛いが)症状が発症していたので、経験者としては少し油断していた。

今回も、激痛になる前の事前診療などの対策は間に合わなかった。

結局、急いで家まで帰り、安静にしている他はないのだ。

もちろん。そのまま病院へ向かえば、その後の痛みとの対峙も軽い戦闘にすることもできたのだが、苦痛に歪む顔を晒し、病院で耐えるよりは、4時間一ラウンドを闘おうと決めたのだ。

その判断が甘かった。

もちろん夜までに激痛はいったん収縮し、その日は何とか寝ることもできたので、翌日医者に行き、鎮痛剤としてのモルヒネを処方してもらって、立て続けに1日4苞をのんだ。

痛みはそれとともに緩和し、もう大丈夫とタカをくくっていたら今度、その薬の副作用で腸がストライキをおこし、機能不全となり、全く便意がなくなった。

普段から内臓の強さを自負していたものには、脱糞ストライキ(ようは便秘ですが)がこれほど過酷なものとは想像だにしていなかった。

五日目になって、再び診療所で鎮痛剤と新たに下剤を処方してもらい、大量の下剤を飲んだが一向に便意らしい感じはない。腸が全く反応していない感じた。

これはもう緊急事態だと思い、内側からの攻撃がだめなら、出口からと大量の浣腸を買い込み、何年振りか覚えてはいないが、自分で注入してみた。

もちろん40ml一本で効くとは思っていないので、三四本立て続けに注入した。

そちらの嗜好があるわけではないので、楽しくはないが、とにかく出したいの一心だったが、結果は大腸には届かず、戦闘は不発に終わった。

結果的にほとんど眠れない状態に陥ったので、朝の三時に意を決して、ウォーキングを開始した。

もうこれは、強制的に大腸に刺激を与えるしかないと考えたからだ。

二時間歩いた。

歩くことは苦痛ではないが、祈るような気持ちであった。

家に戻り、できることはすべてやったという満足感で朝方少し横になっていたら結果はやってきた。

30分ほど横になっていたら、突然のゲリラ便意が起こり便所に駆け込んだ。

きわめて強固だった外壁が陥落し、汚水といえばこれほどの汚臭はあるかと思う程の、薬と未消化糞尿の混ざった汚物が1ℓほど排泄することができた。

これは、完全勝利のための勝鬨だった。

徐々に内臓機能が再開し、古錆びた機械が再び動き出した。

ここまで来るのに要した一週間は過酷だった。

まだ、石は排出された感じはしないのだが、痛みもほとんどないので、もう薬は一切飲まないで体調を戻すことに専念する。

齢をとるということは、こんな経験を様々繰り返すということでしょうね。





タグ: 尿路結石 便秘
天使と青い鳥
週末に娘が結婚した。

25歳というのは、適齢期という年齢だろうか。

私にとっては「えっもう!?」という感じだった。

娘が、高校生となり、大学にまで行き、社会人となって3年も働いたことだけでも驚きだった。

娘は、小学校から中学の一年までは殆んど学校には通えなかった。

その理由は今考えても良く分からない。

理由となりそうなことは沢山あったが、なぜ学校に行けないのかは本人にも分からずじまいだった。

しかし、何かのきっかけにより、突然と学校に通いだし猛勉強を始め、希望する高校に入り、希望する大学に入り 、希望する就職先に入ることが出来た。

私は、娘が小学校3年頃家庭を離れ、別居生活に入った。だから殆んど娘の日常を知らない。

休みの日とかに、娘達が通って遊びに来るという生活だった。

今思い返せば、親という資格など無いに等しいのだが、娘と縁が切れることだけは避けたかった。

それが結果的に良かったかどうかは今も分からないが、結婚式で「お父さんありがとう」などといわれると申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

本当は、結婚式自体も出る資格さえないのではとずっと考えていたのだ。

結婚することを知らされてからは、なんともいえないカウントダウンの日々が重苦しかった。


娘が郷里で産まれ、娘を抱いた妻を東京駅に迎えにいったときには、何重にも産着に包まれている娘が天使のように見えた。

この世には天使がいるのだと始めて知った。

天使は大切な人を守るために地上に降りてきたのだ。

大切な人は二人の大人。

ずっとその二人を守るためにそばを離れないで見守っていた。

そのことに気がついたのは、下の娘が高校で不登校になってからだ。

天使は二人を守るために、自分を犠牲にするのだ。


そしていつの間にか結婚式を迎えた。

天使だと思っていた娘は、いつの間にか青い鳥となり、羽が生えそろったと思ったら飛び立った。

もう、役目が終わったといわんばかりに、賛美歌がこだまする教会の中を飛び立っていった。

やはり天使だったのだ。

目の前には、見守られる人となった娘が幸せそうに笑っていた。

賛美歌が鳥の歌声のように聞こえ。








 
1995年という年
ある意味、1995年は一つの時代の終焉を現していると言えるのではないだろうか
阪神淡路大震災とオウムサリン事件があった年である。

例えば、時代の流れを大きな振り子のようなものと考えたなら、1945年が一方の極点を示し、1995年が他方の極点を示しているという考えかただ。

その間は50年という年月が流れている。

50年という年月で、振り子が極点から極点へと振り切れ、今度は逆方向に振り子が向ってい行るという仮説である。

その仮説で言えば、それから20年が経過し今は振り子がその垂直の位地に至る手前にあるということになる。

もちろんこの仮説には、何の根拠もなく、恣意的な思い込みと言われればそれまでだ。

ただ、感覚的なイメージとして、敗戦により壊滅した一つの社会の在り方が、新たな方向に向かって速度を増し、極まった状態が1995年という時間であったのではないかという感じがするのだ。

この感覚を仮説と考えたとき、時間軸で考えれば現在から30年後に極点に至るということになるが、その時間感覚については精度はわからない。

では、2011年というエポックをどう考えるかという質問も出てきそうだが、私論では2011年に起こったことは、1995年に起きていてもおかしくない事象としてとらえることもできるのではないかと考える。

もちろん地震や津波という自然現象の発生の確率の話ではなく、人工的な社会現象という出来事としての意味でだ。

もはや「いつ起こってもおかしくない現象」として放射能汚染が2011年に広がったという意味だ。

だから、原発事故も"その時"起こってそれまでは大丈夫だったわけではなく、既にいつ起こってもおかしくない状況にあったという考え方だ。

話しを戻すと、果たして現在はどこに存在しているのだろうか?

垂直の状態になる手前ということは、加速度的には一番スピードが増した状態から反対側へ振れていく時になるということだ。

それがどのような現象に向っているのかを私は知らない。

その現象が30年後に現れるのかどうかもわからない。

このような仮設は、悲観主義であり、運命論的であると笑われればそれまでだが、私自身はそのような時代認識の中で、今ある場所をとらえていくことになるだろう。

30年後にその世界を見られるかどうかは別として、大変興味ある問題だ。



アラン ブースと長良川~紀行作家の見た日本の風景



今から25年程前。

というか1990年頃、この長良川筋を名古屋から五箇山まで歩いて旅をした者がいる。

それ自体は特段珍しいことではないとも言えるのだか、それが紀行文となって出版されていることを最近知ることとなった。

著者の名前はアラン・ブース。著書名は『飛騨白川郷へ』というもので、失われゆく風景を探してというサブタイトルもつけられている。

英国人の著者が、日本語の本を書いたわけではなく、翻訳本として出版されている。

94年に単行本として出版されているが、初出は週刊新潮に連載されたものがまとめられたものだ。

外国人旅行者が日本の田舎を訪ね歩き、その異文化体験をまとめたと言えばそれまでだが、いやいやどうして、氏が探し求めたものがそんな表層的なものではないことを読み進むにつけて知ることとなった。

89年に名古屋で開催された世界デザイン博覧会なるイベントを覚えている人もいるだろうか、もう25年も前の出来事だ。(私は体験してないが)

なぜかこの紀行文の出だしはデザイン博から始まっている。

89年といえばバブル絶頂の頃、デザイン博自体もその浮かれた世相を反映し、当初目標の1,400万人を上回る約1,518万人に達し、「もっとも成功した地方博」と記憶されているが、著者であるブース氏は極めて冷淡にこのお祭り騒ぎを記録している。

冷淡という表現は間違っているかもしれない、彼は企業や外国から出展された一つ一つのエキシビションや作品を体験した様子を、あたかも異世界に迷い込んだ童話の主人公のような困惑を、軽快にしかもウイットに富んだ文体で表装し丁寧に20ページも費やして描き出した。

ここまで読むだけで、かなりの疲労感とめまいを伴う。

著作名につながる記述が何一つ現れないからだ。

しかしその後唐突に彼は祇園精舎の平家物語を語り出す。

デザイン博の何かに刺激されて平家物語を思い出したというわけではないが、しいて言えば諸行無常という言葉がその会場を巡る間中に頭の中から離れなくなったのかもしれない。

バブル景気の只中から、さらに膨張する90年代への夢を託したかのようなこのイベントは、中京圏の経済の更なる発展を願って名古屋市市制100年を記念して企画されたものだが、なぜブース氏がこのイベントに我慢強くも三日間も費やし、そしてそれを記録しようとしたかの理由は明らかにされていない。

ただ、"日本を歩く"をテーマとしたこの紀行連載のスタート地点として名古屋のデザイン博を描き出したブース氏には旅の終着に向けたこの作品全体の構想がイメージされていたのだろうと思う。

平安期の貴族世界から武人の世へと暗闘する士族の歴史を滔々と説きながら、その世界に広がる日本人の物語認識や世界観を語り、この世の栄華から一転し惨滅の歴史を辿る平氏の残滓である落人集落を目指し、長良川を徒歩で遡るという本題に入ってゆくのである。

25年後にこの著作に出会った私は、この本を読み進める中で、90年代前後の日本の風景を他者の視点を通して改めて追体験することとなる。

追体験というのは誤りである。明らかにこの時代の日本(この地域という意味ではないが)に暮らし、その時代を経験してきたのであって、書籍によって初めて知るわけではないからだ。

しかし、この25年という歳月は、世紀も社会も大きく変化してきた要素を含んでおり、自分の人生の半分となる年月を振り返るという行為はもはや平家物語と大差ない時間の経過を感じ、私自身が著者自身となって旅をしている感覚にとらわれていったのだ。

名古屋を出で犬山にたどり着く。

その前に明らかにしておかなくてはならないことがある。ブース氏の出自である。
1946年イギリスのロンドン生まれ。大学で演劇と英文学を専攻し、卒業後はシェイクスピア劇などの古典劇の演出を手掛ける。そのつながりから日本の能に興味をもち、1970年に来日することになる。当初はそんな長居をするつもりはなかったらしいが、それ以来NHKの英会話講師や早稲田大学の英文科で教えた後、作家として日本の英字新聞や雑誌に社会批評や伝統芸能についてのコラムなどを執筆している。

長い滞日生活の中で、日本語会話も日本語の読み書きも習得したらしく、「そこらの日本人よりも話が上手」と旅で出会った多くの人が感嘆する程らしい。

そんな彼だから、旅先で出会う日本人達はふと店先や軒先に顔を出したブース氏のたたずまいや表情をみて、少しの間言葉を失うのが常だ。

41号線を越え、30kmの道のりを街道に掲げられた英語風の文字を読みながらようやくたどり着いた犬山の観光案内所では、彼が言葉をかけるより先にその案内人は諦めたかのように電話を取り「がいじん一人なんとかならんか」と旅館に電話した。

明らかに"異質"と思われる存在が、その正規の手続きも経ず同質な存在と同じような手続きで「ビールください」と声をかけられたら、当時の日本人ではなくてもだれもが面喰うかもしれないが、それほどに氏は日本の景色と文化に溶け込んでいたのだろう。

ブース氏にとってこれは初めての旅ではない。
彼は88年には日本最北端の宗谷岬から南端の佐多岬まで4カ月をかけて歩いている。その紀行書は『ニッポン縦断記』として同年に出版され(英語版はRoads to Sata)、その後も徒歩で四国、九州、津軽を巡り紀行を記している。

少し運動するすると赤く染まるその白面は、慣れぬ日本人にはどう見ても酔っぱらった不良外人に映る。しかもスーツではなく長い旅生活で薄汚れたジャンパー姿で不意に登場されては誰もが面喰うに違いない。

そんなことも何度目かの旅で十分経験を積んでいる氏にとっては当たり前の反応であるかのように、淡々と語るのだ。

宿に泊まった翌朝、日本最古の犬山城の歴史に想いを馳せたあと、木曽川の橋を渡り岐阜県へ入ってゆく。

ようやく紀行文らしくなってきた。
鵜沼から木曽川を日本ライン沿いに東に進み、その名称の由来に疑義を感じながら美濃加茂から関に抜けて歩いてゆく。

関の街の中に入り、カミソリ生産に変わってしまった刀鍛冶の街並を歩き、堀川沿いの食堂でビールを飲みながら主人に宿を教えてもらい関観光ホテルを紹介される。

この宿に決めたのも、犬山ではシーズンが終わり体験できなかった鵜飼船に乗船できるということを聞いたからだった。

鵜飼についてはこの旅のマスト要素だったようで、伝統芸能好きの彼は鵜飼についての下調べはなされており、「信長の庇護によって守られてきた」鵜飼船に多少の期待を寄せていたようだが、シーズンも終盤となり他の観光客と相乗りで乗った客船に向けショウの様に見せる鵜飼漁には様式化された美とは対極にある機械的な鵜匠の仕草に興味を削がれたようで、特に記することもなく宿に帰っている。

翌朝宿を出立し、いよいよそこから長良川を溯り美濃の街に向かう。

701年にこの地方で作られた美濃和紙で地元の地図台帳が残されていることにより、日本最古の和紙として名高い町であることも紹介されている。

美濃のうだつの町並みのはずれにある食堂に入り、そこの女性と彼岸花についての日本人の仏教的にしみついた感覚についてのやり取りをした後、美濃では有名な造り酒屋の話となり、その清酒『百春』を燗でいただいた後、そこから歩いて3分の造り酒屋にたどり着く。

美濃にたどり着いた後は、なぜかそれまでの流れとはちがう対話が生まれてくる。
名古屋から関に至るまでに出会った人々との会話は、宇宙人と地球人との対話のような探り探りの感じ(日本人側からの一方的な)がぬぐいきれないが、山と平野を分かつための"関"の役割であるかのような街を過ぎたとたんそれまでの異次元コミュニケーション感が薄れ、旅人を迎える人々の普通の会話が成立するようになってくる。

造り酒屋では酒屋の主である女主人に酒の由緒を聞き、一般非公開の酒蔵を杜氏に案内されたり、とても濃い時間を楽しんだようだ。帰りには「次はご家族でいらっしゃい」という挨拶とともに百春のお土産までいただいている。

湊灯台や美濃橋を訪れた後、彼は珍しく街の感慨を書き、「美濃は、年代を経てきたことの証を実に上手にまとっている。それをバスから降りてくる観光客に片っ端から売り込もうとするような俗なところも意地汚さもない」と賛辞を残した。

右岸に続く旧道を遡り、立花白山社を経て、造り酒屋の女主人に薦められた鄙びた湯の洞温泉では川魚のフルコースをいただき、その夜は久しぶりに落ち着いたのか、平家物語の第一巻を読んだと記している。
彼がこの旅で求めていた平家物語的世界の入り口にやっとたどり着いたとでも言うようにだ。

これは明らかに長良川河畔の景色が彼をそのような気分にさせていることが分かる。というのもその後に続く郡上に向けた道行きの中で、左岸を走る高速道路から出るスモッグを気にしながらも、右岸に続く田畑から香る稲刈り後の稲藁の臭いを嗅ぎながら、場所によって表情を変える長良川の川面を飽くことなく眺め歩いている。
春には乱れ泳ぐだろう鮎やサツキマスに想いを馳せながら、話は二十年前に計画された河口堰建設へとつながり、二ページをかけて河口堰建設の経過を語り、建設の見直しに一縷の望みを託していた。もしこれが実現されていたらこのような姿ももはや見ることはできないだろうと記している。

彼が危惧していたその前年、河口堰の本体工事はすでに始まっており、95年には本格運用が始まったが、ブース氏がその後の姿を見ることなく逝ってしまったことは一つの幸運だった。

川では落ち鮎の投げ網をする漁師の姿を見、路辺の石仏に興福寺の阿修羅像を思い浮かべながら、遠くインド中国を経てもたらされた信仰が、長い時間をかけてこの国独自の信仰として定着していった経過をその景色に見ている。

ようやく郡上八幡にたどり着いた彼は驚た。「およそ二十年前初めて日本に来たとき、夢見ていたような町だった。あまりにすばらしい町なので、その晩ぶらりと見て回ろうと出かけた時も、痛い足を引きずるのを忘れるほどだった。」

町の中心にたどり着く前の民宿に倒れ込み、夕食と風呂を済ませ休息した後、宿の下駄を借りて玄関を出たブース氏は「そして三十秒後、道の真ん中に立ちつくしてしまった。名古屋の企業パビリオンであれだけのタイムワープ経験させられたあとで、とうとうほんもののそれにとっつかまってしまったのか、と思ったのだ。」と語る。

面白いことに、この頃の英文の旅行書は一冊を除いていずれも郡上八幡をすっ飛ばしていたようだ。例外としてロンリープラネットには「見るべきものはさしてない」という一節があるだけだったという。

それに続き、「そりゃ確かにシマウマの群れが彷徨しているわけでも、オーロラが夜空に揺らめくわけでも、クラカタウの噴火が近いわけでもないよ。しかし、ここで見るべきものは、初めて東洋に心酔して日本にやってくる西洋人の大半が、いたるところに見つけられるとばかりに思い込んでいたのに、そうでないと知って幻滅する、そういう類のものなのだ」と記している。

ブース氏にこんな感動を与えることができた郡上八幡はある意味ラッキーだったともいえる。もし、彼が夏の郡上八幡へ来たのならば、その喧騒と人の多さに辟易し、名物の郡上踊りも過剰な騒音と表現されていたかもしれないと思うからだ。

だから彼が、十月に入り急に寒くなり始め観光客の減った時期にたどり着いたのは彼自身の幸運だったとも言える。

ブース氏自身が語っている「ぼく個人としては、盆踊りに一ヵ月遅れて郡上八幡に着いて良かった、と思っていた。十月初めの今宵、この小さな町の通りはぼくひとりのものといってよかった。~ぼくはこの泉も商店も石畳の横丁も気に入った。しかしそれ以上に、ごくあたりまえの諸もろが気に入ったのだ。暗いこと、観光客がいないこと、車の轟音ではなく火の用心を呼びかける拍子木と屈託なく流れる水音によって破られる静寂、木と漆喰でできた古い家々-ぼくが日本のありとあらゆる町で探してきたものであり、保存するほどのこともないのでほとんどの町にもはや存在しないものである。なによりも、ほの暗い提灯の下がった食べもの屋のたたずまいが気に入った。」

次の日、宿の主人から郡上の見どころを聞いて再び路上の人となる。
いつものように交通量の少ない右岸を歩き大和駅前のすし屋で昼食をとる。

ようやく白鳥の町にたどり着き見つけた旅館に倒れ込む。
真っ赤な口紅のぽっちゃりした愛想の良いおかみさんは歓迎のしるしとして缶ビールをご馳走してくれたという。
「ぼくはいっぺんにこの旅館が好きになった。ぽっちゃりしたおかみさんは、ぼくが湯につかっているあいだに汚れ物を全部選択してくれ、部屋の窓の外の竿にかけておいてくれた。」

翌日、おかみさんが畳に膝をつき、きちんとした懇願の姿勢をとったのでビックリしていると「あなたのお写真を撮らせていただけないでしょうか。外国の方がうちにお泊りになるの、初めてなんですよね。次の方がそうすぐ見えるとは思えませんし」

そう言って玄関の外に三人で立ち、近所の人にシャッターをお願いし一回失敗し二度目で成功した。

「またきてくださいね」おばあちゃんが声をかけてくれた。
「またきてくださいね」近所の人が声をかけてくれた。
「またきてくださいね」おかみさんが手を振った。

ブース氏はまたも路上の人となり北を目指した。郡上八幡の宿の主人が教えてくれた長滝神社の宝物殿は閉まっていた。
今日中にひるがのまでたどり着こうという計画なのですぐさま北濃駅を越え山道を歩いた。

正午に高鷲村で食堂に入り、二時には西洞の民宿街に到着し三時十五分には叺谷の長良川源流までたどり着き、四時過ぎには蛭ヶ野高原の分水嶺に到着している。

ブース氏は「蛭ヶ野高原は、ヤングのために考え出された楽園だった。」
と評している。若者が都会で欲しがるようなサービスや商品がそろっているという。アメリカ風スイス風イギリス風というどこの国かわからないような建物や装飾を風景としたリゾート地など認めたくないという思いがあるようだ。

人形の家のようなカフェに飛び込みビールを飲み一軒の宿をようやく紹介してもらい、1km歩いた先に紹介された民宿があり、おかみさんが笑顔で待ち受けていていた。

1967年以前には、氏がこれから向かう先である御母衣ダムにあった集落に住んでいたという主夫妻は、移転の地をここ蛭ヶ野に定め民宿を始めた。三年ほど前から蛭ヶ野の地はリゾート地のような活況を示してきたとおかみさんは喜んでいた。この辺境の地にもバブルの影響が確実に表れていた。

この宿でブース氏は同宿した客達とともに夕食をとり、そこで越前から来た庭師の棟梁から、庭造りにおける空間構造を能の型にも似た日本人の精神文化の雛形として興味深く話を聞いている。

そしてここからまた平家物語の世界に入る。分水嶺を越えたこの深き山国はブースにとっては平家の籠り国であり、ちりじりになりながら隠れ逃れた落人の声が深い谷から今も聞こえてくるのかもしれない。

荘川川沿いに続く道を歩きながら「荘川の源流神々しいまでの素晴らしさだった。渓谷づたいに伸びる道の下に、一連の滝、丸石、緑色のよどみなどほ配して澄んだ急流が流れていくのだ。」と僻村の風景を称えている。がしかし、その喜びもつかの間、ロックフィルダムの人口湖によって台無しとなった。「サクラの木と人口湖を囲む土手は、ぼくが八日間の徒歩旅行でこれまで通過してきた中でも最も荒涼として風が強かったのだ。この半分水没した谷には、ひとの住む社会はない。亡霊と子供時代の記憶があるばかりだった。」と記している。

この後、ブース氏はゴールと定めた五箇山の相倉集落まで向っている。
ページ数にしたら46頁も費やしている。

白川郷に残る民謡『白川しょっし』や『白川わじま』の歌詞と落人伝承との関係を考察し、旧遠山家合掌資料館に立ち寄り、家屋と大家族の暮らしぶりに想いを馳せ、平瀬の旅館に泊まりオーストラリアから来ていた旅行者と会話もしている。

たどり着いた白川郷の荻町では、戦中の一九三三年にドイツからナチズムを逃れて来日し、日本の伝統建築の庇護者として賞賛されたブルーノ・タウトも泊まったという旅館に宿泊しているが、もはやテーマパークと化している白川郷の姿に辟易し、タウトの功績にも興味を示した様子もない。

荻町の合掌集落を歩きながら「~朝の空は青く微風さわやかで、カメラの三脚も持たず、テーマ遊園地の頼みの綱である無批判に楽しむ態度も持ち合わせていない人間にとっても、あちこちそぞろ歩くのは快い運動となった。そよ風の小道をぶらぶらと歩いて回りながら、そもそもぼくが日本へ来た理由というのを思い返していた-わざとらしい絵葉書のような景色を求めていたわけではない。まだ生きてつづけているかもしれないと思い、じつは死に絶えてしまったものを求めてきたのだった」と記している。

そして二十年前に日本に来ることになった能への関心と、来日してから知ることになった古典芸能への違和感を書いている。

「絵のように美しい荻町を出て生きながら、なんにでも標識を掲げる日本の化石文化に失望し憤慨しているのか、それとも能や合掌造りの村がすっかり消滅してしまわなかったことに素直に感謝するべきなのか、はっきりと心を決めかねていた。芸術たるもの死に絶えてつつましやかに埋もれているほうがいいのか、はたまた死に絶えても防腐剤に漬けておいたほうがいいのか?後者の方が利益につながることは確かだ、と思った。」

飛弾の七橋のある県境を越え、五箇山に入り、上平村の民宿で一泊し、目的の平村ではコキリコの実演も聞き、薦められた相倉地区でようやく一軒の宿を紹介されるも、学校の研修旅行に来て分宿する高校生の一団と同宿される羽目となった。

ブース氏はもはや、何の期待もなく平家の落人伝説が事実であったのか無かったのかさえ、どうでもよいことのように感じていた。

あたかもそれは、この旅のスタート地点で我慢強く三日間通い続けた名古屋デザイン博の喧騒の世界に再び迷い込んだような錯覚だったのかもしれない。

失われゆく風景を追い求める旅とは、結果として失くしてしまった暮らしという文化を確認することであったのかもしれない。

この旅がブース氏の最後の旅になることは、彼自身がこの二年後に進行した癌を発見することによって自覚されている。その後彼は病床の上で原稿を書き続け、その遠因となるカルカッタへの旅から今日までの症状に至る治療歴などを『背負い込んだ厄介もの』として1993年2月まで連載を続けた。

最後の文章は、アメリカの野球監督が言ったという有名な叱咤激励を引用し、

「試合というのは、終わるまで終わらないんだ」
まっそういうことですよ、みなさん。

46歳の若さで妻と娘を残し逝去した、稀代の作家アラン ブース氏が遺した数少ない著作には、現代に生きる私たち日本人がもう一度立ち止まり考えるための『失われゆく風景』が記録されている。

そんな著作に出会い、25年前に日本の山野を一人歩いたガイコクジンがいたことを忘れないために記録として残す。






















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