魂の所在~今あること。そして未来へ

プロフィール
ぺくさんさん
どうも。
ちょっと年はいってますが、
年取ってますます元気です!!

ふるさとへUターンして、ようやく調子を取り戻しました。

都市生活で疲弊していた身体が、長良川と森の精霊によってリライブしています。

このかけがえのない地域を未来の子供達に残していくために、まだまだがんばる所存です。

流域のみなさんよろしく!!!



QRコード
アクセスカウンタ
Total:1044716
Today:67
Yesterday:67
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初 | next>>
志賀勝氏追悼 月の想いで

月の会東京の主宰者であり、月と太陽の暦製作所の代表である志賀勝氏が2019年8月14日明朝に冥府の人となりました。

「月の会・長良川」としても大変にお世話になった先生のご冥福をお祈りするとともに、これまで先生にお世話になってきた経過をここにお伝えします。

------------------------------------------------------------------------------------

志賀先生に初めてお会いしたのは、月の会東京の事務所(志賀邸)でした。
東京にある民族文化映像研究所に出入りしていた頃(2007年頃)そこに来ていた人に、「紹介したい場所がある」と言われ案内されたことがそのきっかけでした。
その年の旧正月を祝うイベントや小正月のイベントに参加し、旧暦(月暦)のもつ意味やその魅力に惹かれ、それ以来月の会のイベントや勉強会に参加させてもらうようになりました。

その頃の読書会に利用されていた宮田登著「暮らしと年中行事」の中で、お盆と盆踊りに関する記述があり、意見交換の中で「故郷の郡上ではお盆の期間を徹夜で踊る」という話をしたら、皆さんから大変な興味を頂き、翌年の2008年が旧盆と月歴のお盆がちょうど重なる815日から二泊三日で岐阜・郡上の盆踊りツアーという形で東京から大型バスをチャーターして月の会の皆さんが来てくれることになりました。
まだUターンしていない頃でしたが、ツアー先である美濃や郡上の皆さんに協力してもらいながら長良川を遡って満月の盆踊りを体験していただきました。
美濃和紙職人である加納武さんや、のちに結婚し石徹白にIターンした平野夫妻(映画おだやかな革命に登場)とも交流していただき豊かな時間を過ごしていただきました。

その後も月の会東京のイベントや勉強会に参加していましたが、翌年には自身が郡上へUターンすることとなり、それ以来、月の会の活動を岐阜や郡上に根付かせる活動を実践してきました。

時折、名古屋でも講演会を開催されてい志賀先生でしたが、08年の5月には、岐阜の若い仲間達とともに「八十八夜 月の宴」というイベントを岐阜市で開催し、志賀先生にお話をしていただきました。

以来、地域での活動母体を「月の会・長良川」として、流域での月見やイベントを実践してきました。翌年の旧暦正月には、七日正月の七草粥を郡上市の山田さんに準備していただき、早春の催しを開催しました。

美濃市の五十嵐さんや田代さん、加納さん親子に開催の協力を頂き開催した春分の日のイベントにも、東京からわざわざ志賀先生と穂盛さんが駆けつけて下さり地域活動のバックアップをして頂きました。

10
年には郡上で若手地域活動のリーダー的存在であった石神さんに協力頂き、実家である郡上八幡のお寺の本堂をお借りし「月と季節のシンフォニー  -新しい時間と暦を求めて- 」という講演タイトルで志賀先生に郡上で初めてとなる講演をしていただきました。

この年の冬至には皆既月食が見られるという事で、月の会の仲間を誘って伊勢・二見の月見・冬至の日の出ツアーに出かけました。あいにくの天候で月食観察はかなわなかったのですが、月の会東京でも縁の深い賓日館を拝見したり、翌日は内宮の宇治橋からの日の出を楽しむことができました。

翌年の311日に起こった東日本大震災への鎮魂として地元でのイベント開催は控えておりましたが、志賀先生がお話しする月の会・加能越の八朔イベントや、月の会・東京の七夕イベントへ娘を連れて参加したりしました。

地元で久しぶりにイベント開催したのは12年の6月です。郡上市の白鳥町で地域文化の研究所を立ち上げた元NHKディレクターの水谷慶一氏の事務所で、志賀先生のお話を聞く機会を設けました。
水谷氏は知る人ぞ知るレイラインと太陽信仰の研究として、テレビで「知られざる太陽の道」を制作した責任者です。
太陽信仰と月信仰という二人の巨匠に挟まれてスリリングな講演会となりましたが、若い女性たちが沢山参加してくれて興味を持って月歴と月のリズムのお話を聞いていただけました。

13
年の旧暦小正月には郡上白鳥のオーガニックカフェ嘉利にて、志賀先生を招いたお話会を開催し、小正月の行事と女性の暮らしについてお話を頂きました。また同日開催として、石神さんによる「女性の身体と法話」も開催されました。
地元ではその頃から旧正月の若水汲みを実践していて、参加者がとっておきの場所から若水を汲み集まり、お茶やコーヒーに仕立てて新たな年の予念と生命の再生(若返りか?)を祈念しました。

15
年の夏には、月の会・長良川の設立のきっかけともなった「月とお盆」を再びテーマにして志賀先生にお話を伺う機会を設けました。志賀先生からは「郡上は盆踊りのメッカだけど、本来の盆(旧暦七月十五日)に踊られないのは寂しい」とお話しいただきました。
そのお話が一つのきっかけとなり、「旧盆の満月の下で踊りを踊る」ことがテーマとなりました。
ちょうど、地域では2017年が白山開山1300年の年にあたり、その年に石徹白や長滝白山神社で踊りを奉納しようという準備が始まったのもこの頃です。

なかなか地域での定例的な会合の維持が難しいため、新月の日に石神さんが実家のお寺で「新月茶法」の会を開催し、お堂でお経を唱えた後にお茶を頂きながら季節と暦の緩やかなお話会も始まりました。
その経過の中で、親せきのグラフィックデザイナーに協力してもらって、大型の月暦の日めくりカレンダーを制作して頂き、それを本堂山門前に設置して、毎朝その日の月の形が一目瞭然の月歴カレンダーを掲示してくれています。

16
4月には月の会の代表を石神さんにお願いし、その記念と白山開山祭のプレイベントとして、郡上八幡の大乗寺で、「旧暦で知る自然のリズム」というタイトルで志賀先生にお話をしていただきました。大乗寺の住職である高橋教雄先生とのプチ対談も実現化することができました。

そしていよいよ17年には白山開山1300年の記念として様々なイベントが実施される中で、旧暦七月盆の満月の日に石徹白の中居神社と白鳥の長滝白山神社に於いて拝殿盆踊りを奉納することができました。
当日は東京や関西からも月の会の仲間が沢山参加して大変力強いサポートをしていただきました。

古来からこの時期に石徹白から白山に登り、白山への道の清掃を行っていて、その帰りに登拝者が白山の様子を石徹白の中居神社で唄にして伝えたものが、郡上盆踊りの一つのルーツであり、翌日には長滝白山神社の拝殿で場所踊りの正歌(ショウガ)として歌い踊ったと伝わっています。
郡上の唄踊りの原点であるこの行事を、本来の満月の下で再び復活できたことは私たちの地元の者の喜びであるとともに、月暦の文化を再生することを会の使命とする志賀先生と仲間達にとっても特別な出来事でした。

大変な喜びと感動がひとしおであったこの取り組みを当初この年限りと思っていましたが、参加してくれた踊り仲間や月の会の関係者から、是非次年度もと声がかかり、昨年も実施することができました。

昨年の踊り奉納が終わった後、「来年はどうするの?」という声が上がりましたが、2019年はちょうど旧盆と月暦盆がぴったりと重なる機会(2008年以来)となり、徹夜踊り期間中に重複のイベントも理解が得られないという判断から開催しないという方針を決めており、後日志賀先生にもその旨を伝えていました。

お盆が近づくにつれて、去年や一昨年の満月の盆踊りを思い出していましたが、まさかその満月の日に志賀先生が帰らぬ人となっていたとは知らず、数日後知人からの電話で知ることになりました。

昨年からの体調不良の様子と、御病気で入退院されたことを聞いていたので、今年の春頃にはお見舞いにと思っていましたがなかなか実現できず後悔することになりました。

先日古くからの仲間に連絡し、志賀先生との想いでを話していたら、お世話になったこれまでの事を一つ一つ思い出し、あまりの自分の愚かさに愕然としてしまいました。

その仕事の価値の大きさを知っていたのは志賀先生以外には何人もいないのでははいだろうか。

志賀先生の志を自分は本当に理解していたのだろうか?

だれがこの先志賀先生の仕事を検証して、その客観的評価をしてくれるのだろうか?

志賀先生にまかせっきりにしておんぶにだっこだった事を初めて突きつけられた気がしています。
それは志賀先生からの宿題のように感じるのです。

「あとは君たちに任せたよ」

あの笑顔を残し。



この10年は何だったのか?
時代は平成から令和へと変わった。(このPCは"れいわ"を正しく変換してくれない。もはや骨董品)

秋には新天皇の即位式も行われる。

世の中は新しい令和時代やオリンピックで浮かれているようだが、ほんとうにそんな楽観的な状況だろうか。

都市と山村の人口比はどんどん拡大している。

このままいけば自治体機能として山村でのこれまでの様な生活の維持はできなくなることは明らかである。

だから、子供を増やせとか、都市部からIターンを増やせとかのキャンペーンがいかにもそれが可能かのように取り上げられているが、都市部でとんでもない事態が起こらない限り、そんな規模の人口移動の可能性はない。

郡上市で考えても、この10年で5000人以上の人口が減少しており、これからもまだ続く。郡上市の試算では2030年には総人口35,514人とさらに5000人の減少となる。

はたしてこのまま、地域はもつのだろうか?
35000人と言えば合併以前の旧町村の四分の三の人口である。
1,000平方キロの面積の中、市域の九割を森林地帯とする郡上市は、それだけでも一人あたりにおける公的負担コストは高いのだ。

人口減少に伴う公的負荷が高まる程、人口の流失の悪循環は高まり、自治体としてその負債に耐えれなくなる時が必ず来る。

そのことは理屈では認識されていても、まさかそんなことがとか、ずっと後の事だろうとかと思考停止に陥っています。
行政は、だからそんなことにならないように、UIターンの促進、子育て世代の移住促進などを政策の重点に位置付けていますが、それはある意味で事実を曖昧にし、現実から目を背けさせることにもつながっています。

政府(ここでは自治体ですが)というものはそもそも無責任なもので、結果が公然化するまでは常に大丈夫だと言い張ります。
そして、もはやそれが事実となり明らかとなった時には、既にその責任者は目の前からいなくなっているというのが世の常です。


これからこの地で生きていくという事は、そのような未来が近い将来必ず訪れるという認識と、そのような未来の中でこの地にどのように生き残っていくかという決意が必要とされています。

もちろん、そうなったら別の地域に移住するという選択肢も当然ありだし、多くの人はそのような選択を余儀なくされるでしょう。

それをどうこういうことは不毛ですが、やはりこの地でどうすれば生きていけるかとこれから考えていくことが大切なのだと思います。

もちろんそれは、郡上市だけに限ったことではなく日本中で起こっていることなので、都市で生きている人も地方で生きている人にもすべてに問われる選択になってゆくのだと思われます。

簡単に言ってしまえば、戦後の経済成長が築き上げてきた均等な分配の仕組みが破綻し、どこでも得られたインフラと安全が限られたものになっていくということだと思います。

そのような現実が当たり前だった時代には、そのリスクをカバーする仕組みが地域や集落で産み出され運営されていましたが、はたしてこれからそのような仕組みを産み出すことができるのかはわかりません。

ただ、郡上のような山間集落には、古来からの結いや共同がまだ地域に根差しているため、そのような仕組みを産み出す素地の可能性は高いと思われます。


ある意味で言えば、このムスブログ誕生のきっかけもそのような時代の変化を感じた人々が、個々ではとても解決できない社会課題に対して、問題意識を共有する仲間をつなぎ、共感共有するところから何かを生み出していこうという取り組みであったと今は思えるのです。

あれから10年、
(前のブログからの続き)

10年という時間は長い。

昔から10年一昔というから、すでに過ぎ去った時間として客観視できる単位だ。

10年という年月が過ぎて、2019年となり元号も新たなものとなった。

10歳年を重ねた自分がいる。(もちろんあなたも!)

私たちはこの十年に何を得て、何を喪失したのか?

難しい設問だ。

改めて、
何が変わり、何が変わらなかったのか?ということか。

私はライフスタイルがかなり変わった。

半ばサラリーマンの様な安定した仕事を辞め、本業を"祈る人"と改めた。
日中はなるべく山と川自然に接し、太陽の下で百姓をしている。
(そのぶん夜は派遣で工場勤務)

そのようなライフスタイルになったせいか、同年代男性とはあまり接する機会が無くなり、そのぶん、異年代の女性や子供と接する時間が長くなった。

そのせいか、あまり気負ったことを考えなくなり、日々の生活の中での喜びを感じることが多くなってきた。

もちろんそれは、自分が歳をとったということでもあるのだが、それがマイナスの事でなく、当たり前の自然なこととして素直に受け入れることができるようになったのだ。

森の中を歩いているときに感じる、清涼感と寂寥感。

田畑で作業しているときに感じる、日々の自然の変化や風などに癒される。



世の中には、漠然とした不安感や孤独感が漫然と偏在している。

世の中とは、言い換えればこの世ということだ。

この世に隙間がなく息苦しいものに変わってしまったのはいつからの事だろうか?

昔(それ以前という意味で)は世の中は、社会の間に隙間(グレーゾーンとも言うが)があった。だからその隙間で息継ぎができた。

この世が生きづらい人も、そのグレーゾーンで生きていくことができたのだが、

全てが世間とネットワークで埋め尽くされた現在の社会はその隙間を自ら放棄してしまった。(自らというのは語弊があるかも、知らず知らずのうちにという事か)

社会がその隙間を放逐してしまった以上、隙間は自分で作るしかないのだ。

隙間や遊びの無い仕組みはいずれ齟齬をきたしてしまう。わかりきったことだ。

それが10年かけてわかったことかもしれない。


 
あれからのムスブログ
この長良川流域コミュニティ"musublog"が開設されたのはいつになるのだろうか?

開設時期を探していたら、開設の理由としてabout usに

"長良川上流域で多くの方が、それぞれのメッセージを発信し続けてきました。一人ひとりの声は小さくとも、みんなの声が集まれば大きくなります。そのメッセージを広く遠くへと届け、長良川エリアの活動が日本中で聞こえてくる様にしたい。その為に5つの理念のもと長良川上流エリアブログポータル『musublog』を立ち上げました。 "

長良川の流域(とくに上流域)で活動され、新たなライフスタイルを提案している人々をつなげてその声をシェアし、大きくしてやがては地域社会に還元できるようなものにしたいというのが開設の理念でありました。

調べてみたら2010年の3月頃に一番早いブログ開設があり、この頃にサイトを立ち上げたようです。(それ以前はすべてテスト開設であった)


スタートしたのが震災以前であったので、2011年3月11日以降に関連記事を探したら、直接震災の事に触れた記事はほとんどなく、記事でちらっと触れた程度であった。
軽く記事にできないような言葉にできない当時の雰囲気を改めて感じることができる。

このブログ開設の平行して実施された、"むすぶ祭り"が2010年の夏から秋のほっこり祭り、翌年1月には雪まつりが実施されています。

この祭りは"musublogで知り合った地域・流域の仲間で「地域のお母さんや子供たちが、自然や文化に触れ楽しめる機会を作ろう」という想いを実現しようという有志が集まり「GO NATURE」(*1)という任意団体を結成することになりました。
このムスブ祭りもその活動の一つとして運営されています。"

(この年の3月に発生した震災によって、この団体活動は中止となりました)

開設当初から2~3年でブログ開設も増えていきました。
もちろん個人または任意団体ブログの開設は無料で開設できましたが、商用利用の場合は利用料金が発生しています。
この収益でサイト運営をと運営者H氏は話していましたが、なかなか収益的には採算の合わないモノだったようで、放置となった原因であると思われます。

開設以降数年間は登録ブロガーたちがせっせと更新していたのでそれなりに面白い地域ブログだったのだが、私を含めブログからSNSへの流れの中で、徐々に更新化数も減り、2016年以降はどんどんブログ荒らしのページが増えていった。(運営者のH氏も当初排除に手を焼いていたが、とうとう諦めたようだ)

いまでは(2019.7/5現在)、5000を越えるブログ数となっているが、その内の4900は荒しの違法ページである。

現在、日々64件のブログが更新されているがその内63件は荒しのブログです。

しかし、その内の1ブログは現在もまだ更新を続ける、きょうこさんの"たらったたんか"のブログだ。
2015年の1月4日から続けられていて、日々の暮らしぶりの中で感じた事を短歌として記録し続けています。(たぶんこのブログ唯一の生存者?)


MUSBLOGもあれから10年となり、この10年を見つめ直し、新たな10年に向けた転換の時期だと思います。

そんなミーティングでもしたいな!?

私も新たな10年に向け、ブログ更新を再開したいと思っています!!
(続けばいいけど・・・)


奈良での志賀さんの講演会

志賀勝さんをお招きして
「万葉集」などを中心に月信仰を考える講演会です。
古の人々の月夜に対する想いを感じながら
奈良の町屋「月眠」で楽しいひとときをお過ごしください。

月暦のお話 
「月信仰の聖地を語る」
お話  
志賀勝(月と太陽の暦制作室) 
    1949年東京生まれ。
    日本読書新聞編集長を経て著述業。
    1997年から「月と太陽の暦制作室」を開いて、
    月暦を毎年発行、月と季節の復権と発見に努めている。
    著書「魔女の素顔」「病気は怖くない」
      「月的生活」「月曼陀羅」など
    ↓ 「月と太陽の暦制作室」のホームページ
    http://tsukigoyomi.jp/index.html

日時  
2016年8月10日(水曜日) 18時~
場所  
月眠(ギャラリーと学びの町屋)
奈良市高畑町1042番地
0742-22-7180
↓ 「月眠」のホームページ
https://www.facebook.com/getsumin
参加費
1000円 

問合せ
主催 men at work
090-8752-3307
menat@nifty.com
担当 関山
c0103137_02024256.jpg


http://menat.exblog.jp/25852277/
たかす開拓記念館オープン


郡上市の高鷲町の町民センターに、新たに「たかす開拓記念館」が設置され、
間もなくオーブンとなります。

地域の開拓の歴史に特化した記念館というのも珍しいと思うのですが、
その内容の濃さと、展示方法の斬新さが際立っています。

ただ単に、歴史資料を展示するという教育的志向から、"見せて、感じさせて、考えさせる"展示という新たな手法が工夫されています。

また、資料や文字の情報量たっぷりという従来型から、情報量を制限し表現を厳選した表現がスタイリッシュな感じになっています。

展示されている内容は、近代史の中であまりクローズアップされることのなかった開拓(移民)史なので、戦争の時代の極めて重く苦しい内容であるわけですが、その内容を薄めることなく、史実を史実としてストレートに表現し、当事者の声なども採録しリアリティーを高めています。

ある意味、戦争資料館と言ってもよい内容であり、親や祖父母の世代が経てきた厳しい社会の現実を知らない、私たち世代や子供たちの世代には極めて意義深い内容です。

「"なにくそ、おかげさま"の精神で乗り越えてきた、地域の先人たちの苦難を知り、私たちはこの時代に対面して生きていかなければならない」そんな思いを新たにさせる機会として、このような施設が地域にできたことを感謝したい。


注)オープン日は4月24日ですが、当日は記念行事のため、一般の公開は午後3時以降となりますのでご注意ください。

土日祭日は通常休館日となりますが、ゴールデンウィーク中は休まず開館されているので、平日休んで見に行けない人は、この期間にぜひ。




映画『FOUJITA』 その評価
私は大の小栗監督のファンであるため、冷静な映画批評は書けないと、前もって断ったうえでの話だが、

映画『FOUJITA』 は素晴らしい出来である。

この映画を見た多くの人は、よく解らない。抽象的すぎる。フジタの人となりが表現されていない。

ごもっともな感想である。

それらの意見はそれぞれの主体である人の映画の見方なので否定はできない。

だが、その人に対し「もう一度見るとこの映画の素晴らしさが見えてくる」とだけ伝えたい。

小栗映画を見ている(といってもそんなにたくさん作品があるわけではない)私としては、この監督が、単純に日本人にも忘れられているような画家の生涯を描いてその復権を試みるというような作品を作るわけはないと知っているからである。

しかし、映画を見る側は、藤田嗣治という、フランスで高く評価され、愛されたという日本人画家の生涯を知りたいと思うから、どうしてもその人生の顛末に引きずられてしまい、挙句の果てには、本人の想いは、本人にしかわからないというように突き放してしまう描き方に消化不良を起こしてしまうのだろう。

小栗監督の映画は
①静止画のような画像としての画面であり、
②その画面の中にあらわれる、人やモノの演劇的構成であり、
③そして、時間を越えた伝承やファンタジー
で構成されている。

絵画のような風景や描写を画面に表し、現実の時間を映画の時間に変えてしまう手法。
説明的な会話をほとんどそぎ落とし、画面に表す演劇的構成の補完的要素として言葉を使う手法。
そして、現実世界から(この世ではない)深層世界に見るものを引きずり込むための説話が利用される手法である。

初めて小栗映画を見る人は、この手法の斬新さに戸惑い、抽象性にいらだつのだろうが、映画を見たことさえ忘れた頃、映画のイメージのシーンが突然とよみがえるような経験をする。小栗映画はそんな装置なのだ。

もっと不真面目に小栗映画の三要素を語れば、
①にモノノケ
②に能的要素
③に岸部一徳

これは少し茶化し過ぎだが、彼の映画には無くてはならない要素である。

ある意味では、小栗監督の作品は何を見ても同じである。
映画そのもののテーマも同じであるといっても過言ではない。

そこに、彼の映画作品の普遍性があるのだといえるだろう。

この映画を何映画と問えば、それは明らかに戦争映画だと思う。正確には戦争の時代の映画ということだ。

フジタの半生の中にあらわれる、第一次大戦後のフランスから第二次大戦に向かう日本の状況を、フジタという人間を通して観客は追体験する。

それは、単に戦争の悲劇や悲惨さを"見る"ということではなく、人々がその時どう思いどう生きていたかを表現しているのだと思う。

主人公フジタを含む、全ての登場人物は言わば時代を映す素材の一部ようなもので、呟きのように発せられる言葉によってそれが人であることを認識させている。

主演のオダギリジョーにしても、中谷美紀にしても、他の俳優にしても、その俳優の持つ演技とか個性などというものを極力表面化させないよう心掛けられている。

映画の中で召集令状を受けた先生役の加瀬亮が話す民話の一人語りや、フジタが疎開先の山の中で出会う老婆との対話などが、逆説的に物語のリアリティーを深めている。


この映画の公開の前日に、パリのテロが起こった。
そのことを受けて、「パリで、とても不幸なことが起きました。この映画のキャッチコピーは『パリが愛した日本人、あなたはフジタを知っていますか?』となっています。 1920年代と40年代の日本とパリを、フジタを通して描いた作品です。20年代から数えますと、ほぼ100年近く時代がたっていますけれど、欧州はどう いう社会なのか、あるいはアジアは欧州と違ってどうなのか…この封切りの初日に、パリのテロを受けて、あらためて私は考えました。もしかしたら、この 『FOUJITA-フジタ-』で描いている世界も、14年から振り返って遠い昔のことではないんだと。今に結び付く問題が、この映画の中にもあるんだろう な、ということをあらためて今朝、しみじみと考えました」と語っている。

小栗監督にとって映画とは、世界の今、日本の今をあぶりだすための舞台装置なのだと思う。







タグ: 小栗康平 FOUJITA
S山食堂の想い出
もう45年位前の事か。

暮らしていた小さな町になぜか、総合病院と診療所が並ぶように立っていた。

そんなところに小さな食堂がができたのだ。

今思えばそれは、病院の患者を当て込んでの開業だったのだろう。

食堂を開業した家には同級生が暮らしていた。

開業と同時に、隣村から引っ越してきたのだ。

小学校の四年生だったろうか、近所ということもありすぐに仲良くなった。

ちなみに、我が家も小さなお菓子屋を営んでいた。5、6年前の事だ。

そう考えるとお菓子屋など始めたのはきっと、駄菓子を買いに来る子供よりも、病院の患者を当て込んでいたのだと今にして思う。

食堂など近所にはこの店以外になく、我が家では開店早々から上顧客となっていた。

うどんとそばと卵どんと親子丼。そんなメニューだったと思う。

我が家はもっぱら、うどんを注文した。

この店の素うどんがなんとも美味かった。

具はネギとナルトと小さなカシワ肉のみ。いたってシンプルだが、汁の味が絶品だった、関西系の薄い出し醤油に鰹節の出汁が絶妙に利いていた。

友達の家ということもあり、一人でも店に食べに行ったし、たまにはお母さんにご馳走してもらったこともある。

そうなのだ、この店の料理人は同級生の母親だつた。

同級生の母にしては少し齢が離れていたのを不思議には思ったが、深くは考えなかった。

我が家だけでも相当の頻度で利用したが、店に入ったてそんなに繁盛していたという記憶はない。もちろん店に行く時間帯は、もう4時過ぎだったから、病院の患者はいなかったのかもしれない。

高校が別になる前までは、よく遊びに行ったし、うどんも食べていたが、高校の頃は記憶がない。
その頃には、町にも活気が溢れ、商店街にもいろんなお店が立ち並んでいた。
喫茶店でナポリタンを食べるのがステイタスだった頃の話だ。

S山食堂の想い出はその頃からピタッと消え、地元を離れた以後30年程忘れていたが、ある時家族で思い出話をしていた時ふと話題になった。

「S山食堂のうどんメチャメチャ美味かった」と美食家の弟が話したからだ。

その時長い間忘れていた、食堂のうどんの味を不意に思い出した。

弟は子供の頃、この味に惹かれ、大人になったらうどん屋になると語っていた程だったので、そうとうに思い入れがあったようだ。

そんなS山君のお母さんが最近亡くなった。91歳だったという。

喪主であるS山君の弔辞で「45歳で調理師免許を取得しお店を始めた」ということを初めて知った。

その話を聞いて再びS山食堂の素うどんの味が鮮明によみがえった。

もう二度と味わうことのないという現実が、記憶の古層からよみがえらせたのかもしれない。

幼い日の想い出と素うどんの味は、もう取り戻すことのできない時間の重みを私に感じさせた。






 
即身仏という仏~祈りの連鎖について
昨日NHKの番組『歴史秘話ヒストリア』というかなり昔からやっている歴史モノ番組があるのをご存知でだろうか?

通常は武将とか偉人とかを、取り上げてその偉業を伝える内容なので、あまり興味を持ってみたことは無かったのですが、今回(第220回)のタイトルは
『オレは即身仏になる!~"ミイラ仏"の不思議な世界~』
でした。

タイトルだけ見たら、おふざけ番組だと思ってしまう内容ですが、これがとても素晴らしい番組内容でした。

即身仏という現象を過去から紐解き、なぜ即身仏になろうとしたのかということを歴史に照らして探ってゆく内容です。

即身仏は正確には即身成仏といわれ、古くから山岳修行の一環として、千日回峰行や木食行などの厳しい修行の末に到達する、最終的な解脱方法として、古くから真言密教や天台密教の修行で取り入れられた修法であったが、最終的には土中入定という修行に入りそのまま息絶えミイラになるという過酷なものだ。

そんな修行が近代法で出来なくなる明治期まで続けられてきたというのだ、もちろん現在も公式には伝えられていないが、そのような修行を選び入定する仏教者もいるだろう。

番組では、江戸時代の後半(18世紀)、ふとしたことから武士を殺めて逃走し、逃げ込んだ湯殿山で仏の道を歩み始め、自分の罪を償うべく、人々の苦しみを引き受ける千日の山籠もり、のちに即身仏となった僧・鉄門海の生涯をたどります。

番組の最後に当番組のナレーターである渡辺あゆみが湯殿山にある注連寺の鉄門海上人の即身仏に対面したとたん、彼女の目から大粒の涙が止めどなく流れ始め、本人自身がうろたえる場面が映し出された。

撮影クルーもこの自体を予期せず面食らった様子さえ感じられる。

彼女は敬虔なクリスチャンでしかも高学歴、しかも父親は牧師でもあった。そんな彼女の心を打ったのは、民衆のために生きた一人の修行者(宗教家)が、死んでもなお民衆を見守りたいという強い祈りの心で修行を続け、病で目的を成し遂げ得なかった本人に代わり、民衆が道者を即身成仏させ以来このお寺に奉納しずっと守り続けてきたという、相互の信仰心に、宗教の違いを越えた信仰の本質を見たからではないだろうか。

結果とても良い番組となった。再放送は下記に。

再放送平成27年 6月10日(水)14:05~14:48総合全国
 
小さな歌集
たらった!たんかの作者であるきょうこさんから、歌集をいただいた。

昨日、八幡で開催されていた「糸CAFEキネマ」の会場で「糸CAFEマルシェ」として展示販売されていたかめっこ農園さんの「キッチンレタス」を買ったら、恥ずかしそうに渡してくれたのがこの短歌集。

きょうこさんの手書きで短歌に可愛いイラストが添えられている。

私がこの「たらった!たんか」のファンであることをコメントで伝えていたので、渡してくれたのだと思う。

きょうこさんの歌を読むと、小さな季節の変化と家族の暮らしの様子が、自然の空気感とともに感じられて不思議だ。

いつか小さな絵本の様にして出してほしいと期待している。












| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初 | next>>
カレンダー
<< 11 月 >>
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最近の記事
フォトアーカイブ
たかす開拓記念館オープン
小さな歌集
アラン ブースと長良川~紀行作家の見た日本の風景
The Reason I Jump
映画『鳥の道を越えて』
穴馬の伝承と文化
書評『鄙への想い』田中優子著
なんだか忙しくなってきた。
馬喰町バンド ライブin郡上八幡
山本太郎と奥西勝