魂の所在~今あること。そして未来へ

プロフィール
ぺくさんさん
どうも。
ちょっと年はいってますが、
年取ってますます元気です!!

ふるさとへUターンして、ようやく調子を取り戻しました。

都市生活で疲弊していた身体が、長良川と森の精霊によってリライブしています。

このかけがえのない地域を未来の子供達に残していくために、まだまだがんばる所存です。

流域のみなさんよろしく!!!



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あれから10年、
(前のブログからの続き)

10年という時間は長い。

昔から10年一昔というから、すでに過ぎ去った時間として客観視できる単位だ。

10年という年月が過ぎて、2019年となり元号も新たなものとなった。

10歳年を重ねた自分がいる。(もちろんあなたも!)

私たちはこの十年に何を得て、何を喪失したのか?

難しい設問だ。

改めて、
何が変わり、何が変わらなかったのか?ということか。

私はライフスタイルがかなり変わった。

半ばサラリーマンの様な安定した仕事を辞め、本業を"祈る人"と改めた。
日中はなるべく山と川自然に接し、太陽の下で百姓をしている。
(そのぶん夜は派遣で工場勤務)

そのようなライフスタイルになったせいか、同年代男性とはあまり接する機会が無くなり、そのぶん、異年代の女性や子供と接する時間が長くなった。

そのせいか、あまり気負ったことを考えなくなり、日々の生活の中での喜びを感じることが多くなってきた。

もちろんそれは、自分が歳をとったということでもあるのだが、それがマイナスの事でなく、当たり前の自然なこととして素直に受け入れることができるようになったのだ。

森の中を歩いているときに感じる、清涼感と寂寥感。

田畑で作業しているときに感じる、日々の自然の変化や風などに癒される。



世の中には、漠然とした不安感や孤独感が漫然と偏在している。

世の中とは、言い換えればこの世ということだ。

この世に隙間がなく息苦しいものに変わってしまったのはいつからの事だろうか?

昔(それ以前という意味で)は世の中は、社会の間に隙間(グレーゾーンとも言うが)があった。だからその隙間で息継ぎができた。

この世が生きづらい人も、そのグレーゾーンで生きていくことができたのだが、

全てが世間とネットワークで埋め尽くされた現在の社会はその隙間を自ら放棄してしまった。(自らというのは語弊があるかも、知らず知らずのうちにという事か)

社会がその隙間を放逐してしまった以上、隙間は自分で作るしかないのだ。

隙間や遊びの無い仕組みはいずれ齟齬をきたしてしまう。わかりきったことだ。

それが10年かけてわかったことかもしれない。


 
あれからのムスブログ
この長良川流域コミュニティ"musublog"が開設されたのはいつになるのだろうか?

開設時期を探していたら、開設の理由としてabout usに

"長良川上流域で多くの方が、それぞれのメッセージを発信し続けてきました。一人ひとりの声は小さくとも、みんなの声が集まれば大きくなります。そのメッセージを広く遠くへと届け、長良川エリアの活動が日本中で聞こえてくる様にしたい。その為に5つの理念のもと長良川上流エリアブログポータル『musublog』を立ち上げました。 "

長良川の流域(とくに上流域)で活動され、新たなライフスタイルを提案している人々をつなげてその声をシェアし、大きくしてやがては地域社会に還元できるようなものにしたいというのが開設の理念でありました。

調べてみたら2010年の3月頃に一番早いブログ開設があり、この頃にサイトを立ち上げたようです。(それ以前はすべてテスト開設であった)


スタートしたのが震災以前であったので、2011年3月11日以降に関連記事を探したら、直接震災の事に触れた記事はほとんどなく、記事でちらっと触れた程度であった。
軽く記事にできないような言葉にできない当時の雰囲気を改めて感じることができる。

このブログ開設の平行して実施された、"むすぶ祭り"が2010年の夏から秋のほっこり祭り、翌年1月には雪まつりが実施されています。

この祭りは"musublogで知り合った地域・流域の仲間で「地域のお母さんや子供たちが、自然や文化に触れ楽しめる機会を作ろう」という想いを実現しようという有志が集まり「GO NATURE」(*1)という任意団体を結成することになりました。
このムスブ祭りもその活動の一つとして運営されています。"

(この年の3月に発生した震災によって、この団体活動は中止となりました)

開設当初から2~3年でブログ開設も増えていきました。
もちろん個人または任意団体ブログの開設は無料で開設できましたが、商用利用の場合は利用料金が発生しています。
この収益でサイト運営をと運営者H氏は話していましたが、なかなか収益的には採算の合わないモノだったようで、放置となった原因であると思われます。

開設以降数年間は登録ブロガーたちがせっせと更新していたのでそれなりに面白い地域ブログだったのだが、私を含めブログからSNSへの流れの中で、徐々に更新化数も減り、2016年以降はどんどんブログ荒らしのページが増えていった。(運営者のH氏も当初排除に手を焼いていたが、とうとう諦めたようだ)

いまでは(2019.7/5現在)、5000を越えるブログ数となっているが、その内の4900は荒しの違法ページである。

現在、日々64件のブログが更新されているがその内63件は荒しのブログです。

しかし、その内の1ブログは現在もまだ更新を続ける、きょうこさんの"たらったたんか"のブログだ。
2015年の1月4日から続けられていて、日々の暮らしぶりの中で感じた事を短歌として記録し続けています。(たぶんこのブログ唯一の生存者?)


MUSBLOGもあれから10年となり、この10年を見つめ直し、新たな10年に向けた転換の時期だと思います。

そんなミーティングでもしたいな!?

私も新たな10年に向け、ブログ更新を再開したいと思っています!!
(続けばいいけど・・・)


奈良での志賀さんの講演会

志賀勝さんをお招きして
「万葉集」などを中心に月信仰を考える講演会です。
古の人々の月夜に対する想いを感じながら
奈良の町屋「月眠」で楽しいひとときをお過ごしください。

月暦のお話 
「月信仰の聖地を語る」
お話  
志賀勝(月と太陽の暦制作室) 
    1949年東京生まれ。
    日本読書新聞編集長を経て著述業。
    1997年から「月と太陽の暦制作室」を開いて、
    月暦を毎年発行、月と季節の復権と発見に努めている。
    著書「魔女の素顔」「病気は怖くない」
      「月的生活」「月曼陀羅」など
    ↓ 「月と太陽の暦制作室」のホームページ
    http://tsukigoyomi.jp/index.html

日時  
2016年8月10日(水曜日) 18時~
場所  
月眠(ギャラリーと学びの町屋)
奈良市高畑町1042番地
0742-22-7180
↓ 「月眠」のホームページ
https://www.facebook.com/getsumin
参加費
1000円 

問合せ
主催 men at work
090-8752-3307
menat@nifty.com
担当 関山
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http://menat.exblog.jp/25852277/
たかす開拓記念館オープン


郡上市の高鷲町の町民センターに、新たに「たかす開拓記念館」が設置され、
間もなくオーブンとなります。

地域の開拓の歴史に特化した記念館というのも珍しいと思うのですが、
その内容の濃さと、展示方法の斬新さが際立っています。

ただ単に、歴史資料を展示するという教育的志向から、"見せて、感じさせて、考えさせる"展示という新たな手法が工夫されています。

また、資料や文字の情報量たっぷりという従来型から、情報量を制限し表現を厳選した表現がスタイリッシュな感じになっています。

展示されている内容は、近代史の中であまりクローズアップされることのなかった開拓(移民)史なので、戦争の時代の極めて重く苦しい内容であるわけですが、その内容を薄めることなく、史実を史実としてストレートに表現し、当事者の声なども採録しリアリティーを高めています。

ある意味、戦争資料館と言ってもよい内容であり、親や祖父母の世代が経てきた厳しい社会の現実を知らない、私たち世代や子供たちの世代には極めて意義深い内容です。

「"なにくそ、おかげさま"の精神で乗り越えてきた、地域の先人たちの苦難を知り、私たちはこの時代に対面して生きていかなければならない」そんな思いを新たにさせる機会として、このような施設が地域にできたことを感謝したい。


注)オープン日は4月24日ですが、当日は記念行事のため、一般の公開は午後3時以降となりますのでご注意ください。

土日祭日は通常休館日となりますが、ゴールデンウィーク中は休まず開館されているので、平日休んで見に行けない人は、この期間にぜひ。




映画『FOUJITA』 その評価
私は大の小栗監督のファンであるため、冷静な映画批評は書けないと、前もって断ったうえでの話だが、

映画『FOUJITA』 は素晴らしい出来である。

この映画を見た多くの人は、よく解らない。抽象的すぎる。フジタの人となりが表現されていない。

ごもっともな感想である。

それらの意見はそれぞれの主体である人の映画の見方なので否定はできない。

だが、その人に対し「もう一度見るとこの映画の素晴らしさが見えてくる」とだけ伝えたい。

小栗映画を見ている(といってもそんなにたくさん作品があるわけではない)私としては、この監督が、単純に日本人にも忘れられているような画家の生涯を描いてその復権を試みるというような作品を作るわけはないと知っているからである。

しかし、映画を見る側は、藤田嗣治という、フランスで高く評価され、愛されたという日本人画家の生涯を知りたいと思うから、どうしてもその人生の顛末に引きずられてしまい、挙句の果てには、本人の想いは、本人にしかわからないというように突き放してしまう描き方に消化不良を起こしてしまうのだろう。

小栗監督の映画は
①静止画のような画像としての画面であり、
②その画面の中にあらわれる、人やモノの演劇的構成であり、
③そして、時間を越えた伝承やファンタジー
で構成されている。

絵画のような風景や描写を画面に表し、現実の時間を映画の時間に変えてしまう手法。
説明的な会話をほとんどそぎ落とし、画面に表す演劇的構成の補完的要素として言葉を使う手法。
そして、現実世界から(この世ではない)深層世界に見るものを引きずり込むための説話が利用される手法である。

初めて小栗映画を見る人は、この手法の斬新さに戸惑い、抽象性にいらだつのだろうが、映画を見たことさえ忘れた頃、映画のイメージのシーンが突然とよみがえるような経験をする。小栗映画はそんな装置なのだ。

もっと不真面目に小栗映画の三要素を語れば、
①にモノノケ
②に能的要素
③に岸部一徳

これは少し茶化し過ぎだが、彼の映画には無くてはならない要素である。

ある意味では、小栗監督の作品は何を見ても同じである。
映画そのもののテーマも同じであるといっても過言ではない。

そこに、彼の映画作品の普遍性があるのだといえるだろう。

この映画を何映画と問えば、それは明らかに戦争映画だと思う。正確には戦争の時代の映画ということだ。

フジタの半生の中にあらわれる、第一次大戦後のフランスから第二次大戦に向かう日本の状況を、フジタという人間を通して観客は追体験する。

それは、単に戦争の悲劇や悲惨さを"見る"ということではなく、人々がその時どう思いどう生きていたかを表現しているのだと思う。

主人公フジタを含む、全ての登場人物は言わば時代を映す素材の一部ようなもので、呟きのように発せられる言葉によってそれが人であることを認識させている。

主演のオダギリジョーにしても、中谷美紀にしても、他の俳優にしても、その俳優の持つ演技とか個性などというものを極力表面化させないよう心掛けられている。

映画の中で召集令状を受けた先生役の加瀬亮が話す民話の一人語りや、フジタが疎開先の山の中で出会う老婆との対話などが、逆説的に物語のリアリティーを深めている。


この映画の公開の前日に、パリのテロが起こった。
そのことを受けて、「パリで、とても不幸なことが起きました。この映画のキャッチコピーは『パリが愛した日本人、あなたはフジタを知っていますか?』となっています。 1920年代と40年代の日本とパリを、フジタを通して描いた作品です。20年代から数えますと、ほぼ100年近く時代がたっていますけれど、欧州はどう いう社会なのか、あるいはアジアは欧州と違ってどうなのか…この封切りの初日に、パリのテロを受けて、あらためて私は考えました。もしかしたら、この 『FOUJITA-フジタ-』で描いている世界も、14年から振り返って遠い昔のことではないんだと。今に結び付く問題が、この映画の中にもあるんだろう な、ということをあらためて今朝、しみじみと考えました」と語っている。

小栗監督にとって映画とは、世界の今、日本の今をあぶりだすための舞台装置なのだと思う。







タグ: 小栗康平 FOUJITA
S山食堂の想い出
もう45年位前の事か。

暮らしていた小さな町になぜか、総合病院と診療所が並ぶように立っていた。

そんなところに小さな食堂がができたのだ。

今思えばそれは、病院の患者を当て込んでの開業だったのだろう。

食堂を開業した家には同級生が暮らしていた。

開業と同時に、隣村から引っ越してきたのだ。

小学校の四年生だったろうか、近所ということもありすぐに仲良くなった。

ちなみに、我が家も小さなお菓子屋を営んでいた。5、6年前の事だ。

そう考えるとお菓子屋など始めたのはきっと、駄菓子を買いに来る子供よりも、病院の患者を当て込んでいたのだと今にして思う。

食堂など近所にはこの店以外になく、我が家では開店早々から上顧客となっていた。

うどんとそばと卵どんと親子丼。そんなメニューだったと思う。

我が家はもっぱら、うどんを注文した。

この店の素うどんがなんとも美味かった。

具はネギとナルトと小さなカシワ肉のみ。いたってシンプルだが、汁の味が絶品だった、関西系の薄い出し醤油に鰹節の出汁が絶妙に利いていた。

友達の家ということもあり、一人でも店に食べに行ったし、たまにはお母さんにご馳走してもらったこともある。

そうなのだ、この店の料理人は同級生の母親だつた。

同級生の母にしては少し齢が離れていたのを不思議には思ったが、深くは考えなかった。

我が家だけでも相当の頻度で利用したが、店に入ったてそんなに繁盛していたという記憶はない。もちろん店に行く時間帯は、もう4時過ぎだったから、病院の患者はいなかったのかもしれない。

高校が別になる前までは、よく遊びに行ったし、うどんも食べていたが、高校の頃は記憶がない。
その頃には、町にも活気が溢れ、商店街にもいろんなお店が立ち並んでいた。
喫茶店でナポリタンを食べるのがステイタスだった頃の話だ。

S山食堂の想い出はその頃からピタッと消え、地元を離れた以後30年程忘れていたが、ある時家族で思い出話をしていた時ふと話題になった。

「S山食堂のうどんメチャメチャ美味かった」と美食家の弟が話したからだ。

その時長い間忘れていた、食堂のうどんの味を不意に思い出した。

弟は子供の頃、この味に惹かれ、大人になったらうどん屋になると語っていた程だったので、そうとうに思い入れがあったようだ。

そんなS山君のお母さんが最近亡くなった。91歳だったという。

喪主であるS山君の弔辞で「45歳で調理師免許を取得しお店を始めた」ということを初めて知った。

その話を聞いて再びS山食堂の素うどんの味が鮮明によみがえった。

もう二度と味わうことのないという現実が、記憶の古層からよみがえらせたのかもしれない。

幼い日の想い出と素うどんの味は、もう取り戻すことのできない時間の重みを私に感じさせた。






 
即身仏という仏~祈りの連鎖について
昨日NHKの番組『歴史秘話ヒストリア』というかなり昔からやっている歴史モノ番組があるのをご存知でだろうか?

通常は武将とか偉人とかを、取り上げてその偉業を伝える内容なので、あまり興味を持ってみたことは無かったのですが、今回(第220回)のタイトルは
『オレは即身仏になる!~"ミイラ仏"の不思議な世界~』
でした。

タイトルだけ見たら、おふざけ番組だと思ってしまう内容ですが、これがとても素晴らしい番組内容でした。

即身仏という現象を過去から紐解き、なぜ即身仏になろうとしたのかということを歴史に照らして探ってゆく内容です。

即身仏は正確には即身成仏といわれ、古くから山岳修行の一環として、千日回峰行や木食行などの厳しい修行の末に到達する、最終的な解脱方法として、古くから真言密教や天台密教の修行で取り入れられた修法であったが、最終的には土中入定という修行に入りそのまま息絶えミイラになるという過酷なものだ。

そんな修行が近代法で出来なくなる明治期まで続けられてきたというのだ、もちろん現在も公式には伝えられていないが、そのような修行を選び入定する仏教者もいるだろう。

番組では、江戸時代の後半(18世紀)、ふとしたことから武士を殺めて逃走し、逃げ込んだ湯殿山で仏の道を歩み始め、自分の罪を償うべく、人々の苦しみを引き受ける千日の山籠もり、のちに即身仏となった僧・鉄門海の生涯をたどります。

番組の最後に当番組のナレーターである渡辺あゆみが湯殿山にある注連寺の鉄門海上人の即身仏に対面したとたん、彼女の目から大粒の涙が止めどなく流れ始め、本人自身がうろたえる場面が映し出された。

撮影クルーもこの自体を予期せず面食らった様子さえ感じられる。

彼女は敬虔なクリスチャンでしかも高学歴、しかも父親は牧師でもあった。そんな彼女の心を打ったのは、民衆のために生きた一人の修行者(宗教家)が、死んでもなお民衆を見守りたいという強い祈りの心で修行を続け、病で目的を成し遂げ得なかった本人に代わり、民衆が道者を即身成仏させ以来このお寺に奉納しずっと守り続けてきたという、相互の信仰心に、宗教の違いを越えた信仰の本質を見たからではないだろうか。

結果とても良い番組となった。再放送は下記に。

再放送平成27年 6月10日(水)14:05~14:48総合全国
 
小さな歌集
たらった!たんかの作者であるきょうこさんから、歌集をいただいた。

昨日、八幡で開催されていた「糸CAFEキネマ」の会場で「糸CAFEマルシェ」として展示販売されていたかめっこ農園さんの「キッチンレタス」を買ったら、恥ずかしそうに渡してくれたのがこの短歌集。

きょうこさんの手書きで短歌に可愛いイラストが添えられている。

私がこの「たらった!たんか」のファンであることをコメントで伝えていたので、渡してくれたのだと思う。

きょうこさんの歌を読むと、小さな季節の変化と家族の暮らしの様子が、自然の空気感とともに感じられて不思議だ。

いつか小さな絵本の様にして出してほしいと期待している。












苦悩と激痛の一週間
もう金曜日となった。

一週間前のこの日、会社に出勤し、さて仕事しようかと思い始めたころ、嫌な感じがよみがえる痛みが、腰と横腹付近に走った。

これは!!

そう、もはや疑いようもない。

前日から、違和感のあった腰の鈍痛の原因、もしかしてと思ってはいたのだが、深刻には考えていなかったことが悔やまれる。

"尿路結石"の症状だ。

初めてではないことだけが唯一の救いだ。

「尿路系に沈着する結晶の石のこと。もしくは、その石が詰まってしまうことにより起きる症状のこと。wikipedia」

初めてその痛みを経験したのが6年前。

山系のイベントに参加していた時の打ち上げで発症した。

酒を飲んでいたらドンドン腰が痛くなり、耐えられなくなってきたので、一人車に戻り車内で耐えた。

その痛みと言ったら尋常ではなく、声こそ何とか押し殺したが、誰もいないところだったら、大声で叫びたいくらいの痛みだ。

車内で、4時間程度苦痛と激闘し、少しだけ痛みが治まった頃、曲芸のような格好で車を運転して家まで帰ったことを昨日の事のように覚えている。

その後も一二度、軽い(と言っても結構痛いが)症状が発症していたので、経験者としては少し油断していた。

今回も、激痛になる前の事前診療などの対策は間に合わなかった。

結局、急いで家まで帰り、安静にしている他はないのだ。

もちろん。そのまま病院へ向かえば、その後の痛みとの対峙も軽い戦闘にすることもできたのだが、苦痛に歪む顔を晒し、病院で耐えるよりは、4時間一ラウンドを闘おうと決めたのだ。

その判断が甘かった。

もちろん夜までに激痛はいったん収縮し、その日は何とか寝ることもできたので、翌日医者に行き、鎮痛剤としてのモルヒネを処方してもらって、立て続けに1日4苞をのんだ。

痛みはそれとともに緩和し、もう大丈夫とタカをくくっていたら今度、その薬の副作用で腸がストライキをおこし、機能不全となり、全く便意がなくなった。

普段から内臓の強さを自負していたものには、脱糞ストライキ(ようは便秘ですが)がこれほど過酷なものとは想像だにしていなかった。

五日目になって、再び診療所で鎮痛剤と新たに下剤を処方してもらい、大量の下剤を飲んだが一向に便意らしい感じはない。腸が全く反応していない感じた。

これはもう緊急事態だと思い、内側からの攻撃がだめなら、出口からと大量の浣腸を買い込み、何年振りか覚えてはいないが、自分で注入してみた。

もちろん40ml一本で効くとは思っていないので、三四本立て続けに注入した。

そちらの嗜好があるわけではないので、楽しくはないが、とにかく出したいの一心だったが、結果は大腸には届かず、戦闘は不発に終わった。

結果的にほとんど眠れない状態に陥ったので、朝の三時に意を決して、ウォーキングを開始した。

もうこれは、強制的に大腸に刺激を与えるしかないと考えたからだ。

二時間歩いた。

歩くことは苦痛ではないが、祈るような気持ちであった。

家に戻り、できることはすべてやったという満足感で朝方少し横になっていたら結果はやってきた。

30分ほど横になっていたら、突然のゲリラ便意が起こり便所に駆け込んだ。

きわめて強固だった外壁が陥落し、汚水といえばこれほどの汚臭はあるかと思う程の、薬と未消化糞尿の混ざった汚物が1ℓほど排泄することができた。

これは、完全勝利のための勝鬨だった。

徐々に内臓機能が再開し、古錆びた機械が再び動き出した。

ここまで来るのに要した一週間は過酷だった。

まだ、石は排出された感じはしないのだが、痛みもほとんどないので、もう薬は一切飲まないで体調を戻すことに専念する。

齢をとるということは、こんな経験を様々繰り返すということでしょうね。





タグ: 尿路結石 便秘
天使と青い鳥
週末に娘が結婚した。

25歳というのは、適齢期という年齢だろうか。

私にとっては「えっもう!?」という感じだった。

娘が、高校生となり、大学にまで行き、社会人となって3年も働いたことだけでも驚きだった。

娘は、小学校から中学の一年までは殆んど学校には通えなかった。

その理由は今考えても良く分からない。

理由となりそうなことは沢山あったが、なぜ学校に行けないのかは本人にも分からずじまいだった。

しかし、何かのきっかけにより、突然と学校に通いだし猛勉強を始め、希望する高校に入り、希望する大学に入り 、希望する就職先に入ることが出来た。

私は、娘が小学校3年頃家庭を離れ、別居生活に入った。だから殆んど娘の日常を知らない。

休みの日とかに、娘達が通って遊びに来るという生活だった。

今思い返せば、親という資格など無いに等しいのだが、娘と縁が切れることだけは避けたかった。

それが結果的に良かったかどうかは今も分からないが、結婚式で「お父さんありがとう」などといわれると申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

本当は、結婚式自体も出る資格さえないのではとずっと考えていたのだ。

結婚することを知らされてからは、なんともいえないカウントダウンの日々が重苦しかった。


娘が郷里で産まれ、娘を抱いた妻を東京駅に迎えにいったときには、何重にも産着に包まれている娘が天使のように見えた。

この世には天使がいるのだと始めて知った。

天使は大切な人を守るために地上に降りてきたのだ。

大切な人は二人の大人。

ずっとその二人を守るためにそばを離れないで見守っていた。

そのことに気がついたのは、下の娘が高校で不登校になってからだ。

天使は二人を守るために、自分を犠牲にするのだ。


そしていつの間にか結婚式を迎えた。

天使だと思っていた娘は、いつの間にか青い鳥となり、羽が生えそろったと思ったら飛び立った。

もう、役目が終わったといわんばかりに、賛美歌がこだまする教会の中を飛び立っていった。

やはり天使だったのだ。

目の前には、見守られる人となった娘が幸せそうに笑っていた。

賛美歌が鳥の歌声のように聞こえ。








 
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