月音(つきのね)∞風音(カヂヌウトゥ)

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∞音∞_a.k.a._風*月さん
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母方が郡上出身で長良川流域にとてもご縁を感じておりますので、どうぞよろしくお願いします!

キーワード:宇宙/巨石/縄文/葦船/磐座/褌/大麻/神社/旧暦/お祭り/音楽/アート/映画…

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私の道しるべ 〜海の記憶「猿投神社の尾張古図」
猿投神社に伝わる養老元年(717)の尾張古図。
かつて、濃尾平野が海であったことを物語っています。




尾張平野ははるか以前、養老山脈を断崖とする深い谷でした。
約1万年前から海面上昇し、約6000年前にピ-クとなる縄文海進がありました。
海進と海退をくり返しながら、約2000年前には葦原を耕地に変え、国生み神話の時代に入ります。

この地図からは、木曽三川に至る歴史と伝統文化を知る上で、ひとつの道しるべとなるでしょう...

 

 

 

 

私は各務原市で生まれ、岐阜市で育ちました。
母方は郡上の白鳥出身で、父方はもののふの出で船乗りだったり転々としていたようです。

子供のころからこんな海なし県の、しかも巨大な濃尾平野の最果てに、なんで○○島とか海を感じる地名が多いんだろうとか、なんで山なのに船の神輿があるんだろうとか。
かれこれ10数年も前、たまたま訪れた木曽三川公園の資料展示で輪中の歴史を見ていたら、その答えがばっちり描いてある古代の地図に出逢った。
今でもそのときの衝撃を忘れることができません。
長島、津島、枇杷島、飛島、中島など、「島」のつく地名が一目瞭然。
(ちなみに岐阜の「羽島」もそうだと思っていましたが、後で調べたら合併による地名でした)




その後、再びこの地図と出会ったのは新聞記事の中でした。
岐阜新聞で連載されていた「ぎふ海紀行」から、1998年2月4日付の記事を全文ご紹介します!

---

ぎふ海紀行 海の記憶

古代の濃尾平野 金色の波寄せた海湾


 太古の海水がわき出た本巣郡根尾村の「うすずみ温泉」から、卑弥呼(ひみこ)と争った狗奴国王の古墳ではと注目を集める象鼻山のある養老郡養老町まで根尾川、揖斐川沿いに南下する時、はっと気付いた。

 西の伊吹山から南へ養老山塊がどっしり構えるが、そこから南、東に目を転じる時、はるか東に岐阜市の金華山が島のように浮かぶほかは何一つ遮るものはない。まるで大海原のような濃尾平野を見て、一枚の古地図を思い出したのだ。

 「世に三河国賀茂郡猿投神社および尾張国葉栗郡玉井神社所蔵の古図と称するものがある。その描くところによると、濃尾地方は一面の海で、中央に中島郡の孤島があり、その南に日置、津島、戸田、長島、枇杷島などの数島が碁石のように点々とし、また長良河口に東、西、中などの六つの島があり、今の金華山の辺に岐阜山と注し、その西に磯島などを描いて、濃尾地方が広漠とした海湾であったことを示している」

 「県治水史」は、「濃尾平野の有史的変遷について口碑の伝うるもの2、3に留まらぬが、一つとして学理上信を措くに足るものが無い」とし、その例としてこの一文を挙げている。

 猿投神社の図は1830(天保元)年、千年前の古図として世に現れたが、海だったという各所に遺跡が知られて偽作との見方が強い。一方で、伊勢湾台風(1959年)による大水害を体験して、あれは千年前の洪水の図とみる人もいる。真偽はともかく、眼前に広がる風景は、まさにこの「広漠たる海」なのだ。

 「縄文海進の海は深くて海面が1、2メートル下がっても海岸線はそう後退しなかった。濃尾平野は木曽三川が運ぶ土砂のたい積で形成されたが、今の姿になったのは近世の海面干拓以降。気候温暖化で小海進があった平安から中世まで、県南部の輪中地帯は海とも陸ともいえぬような所だったと思われる」と、名古屋大名誉教授の井関弘太郎さん。

 東征の帰途、熱田から伊吹山に向かったヤマトタケルは舟の上で、多度山に落ちる夕日を見たかもしれない。もうこのころは遠浅の海で金色の波の向こうに伊吹はあまりに近く大きく、田子ノ浦から見る富士、美保湾から見る大山のように聖なる山に見えただろう。

 伊吹山の神によって傷つき、養老で「足がたぎたぎしく」(疲れるの意味)なり、鈴鹿の能褒野(のぼの)で「大和し美し」と望郷の歌を詠んで死んだタケルは架空の人物だが、壬申の乱(672年)で挙兵した大海人皇子(後の天武天皇)は、この逆ル-トを進軍したとの見方もある。

 古代の養老は、元正天皇の養老改元(717年)や孝子伝説、七堂伽藍(がらん)など全国ニュ-スの発信地。想像以上に海陸交通の要衝だったのだろう。

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当時、この記事を読んだ私はあることを確信しました。
そしてあるときこれが私の道しるべとなり、3~4年ほど前から神社巡りをはじめました。

この地図は、伊吹山と本宮山と猿投山の頂上から眺めて描かれたのではないかと想像できます。
地図の信憑性についても、昭和34年の伊勢湾台風時に水没した水際線上に貝塚などの縄文遺跡が分布するため、やはり縄文海進と重なるようです...




[PDF] 尾張古図と浪越伝説 - 名古屋市図書館
http://www.library.city.nagoya.jp/img/oshirase/2011/hoshi_201112_2.pdf





コメントエリア
■Re: たづ(多鶴)なきわたる、あゆちがた
> 西島一洋さん

万葉集に詠まれている歌ですね。
熱田の干潟、あゆち潟で鳴きわたる鶴(たず)の姿は、まさに白鳥となったヤマトタケルのことだと思います!

阿由知通りからも近い、山崎川の東に広がる瑞穂台地。
川沿いの瑞穂陸上競技場には大曲輪(おおぐるわ)貝塚があります。
愛知県の由来となる年魚市潟(あゆちがた)は、熱田区から南区あたりにあった古代の海辺...
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=736273833&owner_id=4857509
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=736288409&owner_id=4857509
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http://mixi.jp/view_diary.pl?id=738029706&owner_id=4857509

■Re: 川の流れも
> peksanさん

海と山がダイレクトにつながっていた時代、津島神社も真清田神社も熱田神宮も、聖地へはみんな舟で上陸した。
くらげなすただよえる状態から干潟となり、蛇のように生きた川が幾筋も走り、流れを大きく変えながら濃尾平野となっていったんでしょうね。

■Re: あゆちがた
> eisanさん

そうです!
あの西島さんです。
私がアート活動してた頃の大先輩です。

■Re: あゆちって
> たちまちさん

あゆちとは「海から吹いてくる幸福の風」のこと!
私もそのことを、武家の里の石浦さんから教えてもらいました。
http://goodnews-japan.net/news/?p=5078
http://goodnews-japan.net/news/?p=5905

■8世紀には?
∞音∞ a.k.a. 風*月さん

こんばんは
8世紀には?

もっと古い時代では?
8世紀には?では奈良時代くらいですか?

東海湖は桁違いに古い話なんですね。
わかりました。
eisan 10/08/27 23:37

■濃尾平野最古神社
この図を見て中央に見える中島に注目。現在の一宮市、稲沢市、羽島市の一部、の旧中島郡ですね。この島が古代、交流の中心だった事が伺える。海を支配する海人の首長と山林地帯を束ねる地域首長の交流の場。
K・I 10/09/13 22:37

■Re: 8世紀には?
平城京遷都が710年。
古事記が献上されたのが712年。
日本書紀が完成したのが720年。
養老元年の717年を時代的に考えると、まだまだ奈良時代がはじまったばかり。
美濃と尾張が本格的に大和朝廷の勢力下に治まったことを誇示するための地図作りがはじまったことでしょう。

土地の面積を正確に記してこそ支配することだとしたら、海だったことが事実であれば正確に伝えています。
しかし、この地図は大袈裟ではないかと考え、陸地を海に描くことに何のメリットがあるのかを考えてみます。

陸だったのに海に描かなければならなかったとしたら...

朝廷にそぐわない地元勢力が偽って、土地の支配から逃れようとした?
あるいは、朝廷に献上した地図は陸地が描かれていたが、実際は海だったので地元勢力が正確な地図を猿投神社に残した?
と、いろいろ妄想するわけです(笑)...

■Re: 濃尾平野最古神社
K・Iさん、はじめまして!

倭姫命が天照大神を祀る宮を探しながら転々とした元伊勢のひとつに尾張国中嶋宮があります。
それで、古代の尾張国中嶋郡(なかしまのこおり)は伊勢神宮領でした。
奈良時代、尾張国の国府が置かれたのも中嶋郡(現在の稲沢市)だったことを考えると、この島がとても重要だったことがわかりますね。

■猿投神社の尾張古地図
愛知県一宮市で、まちの情報を発信しているHP「まちもよう」管理者です。
鎌倉街道を探索していて、中世、更に古代の濃尾平野の地形に興味を持ち,
あちこち調べた結果、musublogさんにたどり着きました。猿投神社の古地図もいいですが、イラストが分かり易く、綺麗なことに感心しています。
借用をお願いしたいので、御了解をお願いします。
河合幸男 11/03/01 00:05

■プラス2℃の世界、古地図にみる尾張縄文海進の姿
■参考リンク:
+2℃の世界、地球温暖化で濃尾平野は - トヨタ電脳工房「零」 愛・地球・みどり共生システム
http://ea21-expo.sakura.ne.jp/index.php?cmd=read&page=%EF%BC%8B%EF%BC%92%E2%84%83%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%80%81%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96%E3%81%A7%E6%BF%83%E5%B0%BE%E5%B9%B3%E9%87%8E%E3%81%AF&word=%E5%A4%AA%E5%8F%A4%E5%9B%B3

 豊田市北端、猿投山麓の神社に養老元年制作の尾張太古図が伝わり、尾張名所図会にも引用されている。これによると津島・枇杷島は島であり、瀬戸は印場から赤津近くまで入江なっている。これは「古伊勢湾」とよばれるべき海である。

縄文時代から奈良時代まで伊勢湾は養老山脈沿いに深い入江となっていた。この湾の奥、伊吹山麓の大垣付近が波打ちぎわであった、この山麓地帯には、現在は伊勢湾の海岸線からは20km余り離れているが、縄文前期から晩期末葉にかけ縄文海進から海退への移行期には、絶好の沿岸住居環境であったと見らる。海水産の庭田貝塚及び唯一河口汽水域の羽沢貝塚が見つかっており、丸木船も出土している。

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